Theme 1:雇用環境の概観
第1章 アベノミクスで雇用は改善したのか
2012年12月にアベノミクスが始まって以降,報道等で盛んに「雇用が改善した」と言われるようになった。安倍首相(当時)自身も事あるごとに雇用状況改善を成果として挙げている。たとえば,以下は2017年の所信表明演説(施政方針演説)である。
アベノミクスによって,有効求人倍率は,現在,25年ぶりの高い水準。この3年間ずっと1倍を上回っています。(中略)雇用環境が改善する中,民間企業でも,定年延長や定年後も給与水準を維持するなど,前向きな動きが生まれています。
―― 衆議院本会議(第193回国会,第1号,2017年1月20日)
また,以下は安倍首相の答弁に関する記事である。森ゆうこ議員(立憲民主党,当時は自由党)がアベノミクスの成果について尋ねた際に答えたものだ[1]。
安倍晋三首相は,金融緩和を柱とするアベノミクスに関し「2%の物価安定目標に届いていないのは事実だが,政治の場で大切なのは雇用だ」と述べ,好調な雇用情勢を理由にアベノミクスの成果を強調した。(中略)森氏は,物価上昇率目標の未達成などを引き合いに「アベノミクスは失敗だったのではないか」と指摘。首相は「大胆な金融政策を行わなければ,デフレが続いていた。金融政策によって雇用を改善できるというのが私たちの考え方だ。事実そうなっている」と反論した。
―― 時事通信(2019年3月4日)
これら安倍前首相の発言は事実なのだろうか。まずはそのことを統計データで確認する。
1.雇用の2大統計:失業率と有効求人倍率
日本の雇用状況をみるうえでよく用いられる指標は,以下の2つである。
統計名 | 公表元 | 公表頻度 | |
---|---|---|---|
失業率 | 労働力調査 | 総務省 | 毎月 |
有効求人倍率 | 職業安定業務統計 | 厚生労働省 | 毎月 |
まずは,上記2つの統計を使って,アベノミクス前後の雇用環境がどのように変化したのかを確認する。
① 失業率
失業率は労働力人口に占める失業者の割合を示したものだ。世界各国で公表されている代表的な雇用関連統計である。
- 失業率
- 失業者数 ÷ 労働力人口で計算される比率(労働力人口 = 就業者数 + 失業者数)。
日付 | 経済状況 | 失業率 |
---|---|---|
1990年3月 | バブル期(最低) | 2.0% |
2009年7月 | リーマンショック後(最高) | 5.5% |
2012年12月 | アベノミクス開始 | 4.3% |
2019年12月 | アベノミクス(最低) | 2.2% |
2021年3月 | 現在 | 2.6% |
失業率は2020年(コロナ禍)以降に上昇しているものの,2009年以降は低下傾向で推移してきた。特に2019年の失業率は2000年以降で最低となっている。
日付 | 男性失業率 | 女性失業率 |
---|---|---|
2021年3月 | 2.8% | 2.4% |
日付 | 若年層失業率 |
---|---|
2021年3月 | 4.8% |
長期の景気回復に人口減少が重なり,2017年の完全失業率はバブル経済直後の1994年以来23年ぶりに3%を割り込んだ。勤務地や職種などの条件が合わないために起こる構造的な失業を考慮すると,3%われは働く意思があれば職に就ける「完全雇用」状態だ。
―― 日本経済新聞(2018年1月31日朝刊)
なお,失業率の定義には誤解も多い。第2章ではそのことについて説明している。
- 「働いていなければ失業者」ではない
- 失業率の定義について説明(第2章 - 1)
② 有効求人倍率
有効求人倍率はハローワークで取り扱っている求人数と求職者数の比率である。
- 有効求人倍率
- 有効求人数(件)を有効求職者数(人)で割ったもの。1.0を超えると,売り手市場(企業の求人が求職者数を上回る)になる。ハローワーク以外のものは含まれない。
日付 | 経済状況 | 失業率 |
---|---|---|
1990年7月 | バブル期(最低) | 1.46倍 |
2009年8月 | リーマンショック後(最高) | 0.42倍 |
2012年12月 | アベノミクス開始 | 0.83倍 |
2018年8月 | アベノミクス(最低) | 1.63倍 |
2021年3月 | 現在 | 1.10倍 |
有効求人倍率も失業率と同様,2020年に入って小幅に悪化したが,2009年以降は改善傾向で推移してきた。
日付 | 有効求人倍率 (パート除く) |
有効求人倍率 (パート) |
---|---|---|
2021年3月 | 1.06倍 | 1.12倍 |
人手不足が一段と強まり,雇用に関する指標が改善している。厚生労働省が28日発表した3月の有効求人倍率(季節調整値)は前月より0.02ポイント高い1.45倍で,バブル期の1990年11月以来26年ぶりの水準。
―― 日本経済新聞(2017年4月28日夕刊)
2.「バブル期並み」の違和感
ただし,上記新聞記事にあるバブル期という表現には違和感がある。確かに,統計をみる限り,失業率や有効求人倍率がバブル期以来の水準となった。これをもって経済白書[2]では雇用環境を「バブル期並み」と表現している。
他方,タイトな労働需給を背景とした労働市場の人手不足感はバブル期並みとなっており,それへの対応は,我が国経済の持続的な成長に向けた乗り越えるべき課題となっています。
―― 平成29年度 年次経済財政報告
しかし,いくら熱烈な自民党支持者であろうとも,アベノミクスがバブル期のようであったと感じていた人はほとんどいないだろう。この違和感を説明するため,アベノミクスでの雇用改善に対しては様々な反論(つまり,まがい物の雇用改善であるという主張)が展開された。以下にその代表的なものを列挙する。
① 労働力減少説
労働力原小説はアベノミクス期の雇用改善に対する反論のなかでも特に多い。
アベノミクスで失業率が低下したのは,単に少子高齢化で労働者数が減少したから。景気が良くなったからでも,雇用環境が好転したからでもない。
第2章で説明するが,少子高齢化によって,
- 労働市場に参加する若年層が減る
- 労働市場から撤退する高齢層が増える
という形になれば,経済環境が全く変化していなくても失業率は低下する場合がある。
- 労働力人口減少と失業率低下の関係
- 少子高齢化と失業率の関係(第2章 - 2)
② 効果偏重説
効果編調説は「政策の恩恵を受けているのはごく一部だけだ」という主張である。
アベノミクスで雇用が改善したといっても,所詮は東京にある大企業の話。地方や中小企業はいまだに経営が苦しく,雇用を増やせるような状況にはない。
結局,安倍政権は強者の味方。首相は「雇用が改善した」といってひとり喜んでいるけど,じゃあそこに弱者はどれだけ含まれているのって話。自民党政治のなかではいつも女性や高齢者などの弱者がないがしろにされる。
これらはトリクルダウン仮説への批判などと結びつけられて,大企業・大都市・富裕層優遇であるという形をとっている場合が多い。
- トリクルダウン仮説
- 富裕層を優遇すれば消費や投資が活発化し,そこから富が滴り落ちる形で貧困層も豊かになるという考え方。実証的な根拠に乏しいため,その正当性には疑念が向けられている。
このほか,雇用に関しては産業間の偏りを指摘する主張も多くみられる。
政治家は雇用が増えたなんて言っているけど,ホントに介護士や保育士の現状を全然知らないんだね。雇用が増えるどころか,むしろ辞める人続出。
③ 雇用形態劣化説
雇用形態劣化説は「雇用の量は増えたかもしれないが,雇用の質は悪化している」という主張である。ブラック企業の増加,非正規雇用の増加などに対する批判がこれにあたる。
アベノミクスでやってるのは正規雇用を非正規雇用に振り替えて,見た目上の雇用をよくしているだけ。1人の正社員を2人の短時間労働者に置き換えるような,いわばワークシェアリングみたいなことを国がやっているにすぎない。
非正規雇用の問題は第7章以降で検討する。
- 誤解の多い「非正規雇用」
- 非正規雇用の増加について(第6章)
結論からいえば,上記の批判はいずれも誤りといっていい。つまり,「バブル期並み」の違和感の正体はもっと別のところにある。そこで第1部では,上記のような
間違ったアベノミクス批判を否定する
と同時に,「バブル期並み」の違和感の正体を探り,
アベノミクスにおける本当の問題の所在を明らかにする
という形で話を進める。