Theme 3:非正規雇用問題の本質
第6章 誤解の多い「非正規雇用」
第6~8章では非正規雇用について考える。これまで,
- アベノミクスで雇用者数は増加している(第1~2章)
- その理由は女性と高齢者の就業率が上昇しているから(第3~5章)
ということを示してきた。ただし,その雇用形態は半数以上が非正規雇用である。
雇用者の非正規比率は2019年に過去最高となった。したがって,
アベノミクス以降,非正規雇用が増えた
という主張は正しい。しかし,正規雇用も増加していたため,以下のような主張は誤りである。
アベノミクスでやってるのは正規雇用を非正規雇用に振り替えて,見た目上の雇用をよくしているだけ。1人の正社員を2人の短時間労働者に置き換えるような,いわばワークシェアリングみたいなことを国がやっているにすぎない。
非正規雇用には様々な誤解がある。そのことについて,第6章では
- 実態:非正規雇用とは必ずしも「かわいそうな人たち」ではない
- 定義:非正規雇用という言葉に法的な定義はない
の2点について説明する。
1.非正規雇用のイメージと実態
ツイッターで「アベノミクス」「非正規雇用」と検索すれば,以下のような批判的ツイートばかりが上がってくるだろう。
安倍首相は雇用が増えたといっているが,ほとんどが正規雇用にさせてもらえない非正規雇用。結果としてアベノミクスは日本経済をダメにしただけ。
上記ツイートのように,「非正規雇用が増えている」という主張がそのまま批判につながるのは,
非正規雇用 = 正規雇用になれないかわいそうな人たち
というイメージを持つ人が多いからだろう。「非正規雇用」という言葉のイメージがよくないことは政府も認識しており,2019年8月には厚労省が「非正規雇用」という表現を使わないよう求める通知を省内で出していたことが話題となった。
「非正規労働者」とは呼びません―。厚生労働省雇用環境・均等局が,国会答弁などの際に非正規雇用で働く人の呼称として「非正規労働者」や,単に「非正規」という表現を使わないよう求める通知を省内に出していたことが3日,分かった。通知は8月。
―― 共同通信(2019年9月3日)
しかし,第3~4章でも述べた通り,非正規雇用を選択している人たちは必ずしも正規雇用を望んでいるというわけではない。
上記のグラフにおいて「正規雇用がない」を理由に挙げている人は不本意非正規雇用労働者と呼ばれる。
- 不本意非正規雇用労働者
- 正規雇用がないために本人の意思に反して非正規雇用を選択している労働者。
アベノミクスの間,非正規雇用は増加したものの,不本非正規雇用労働者は比率は低下し,絶対数でも減少してきた。
言い換えれば,増加した非正規雇用の大半は自発的に選択した人である。したがって,アベノミクス期に限れば,
非正規雇用 = かわいそうな人たち
というイメージは非正規雇用の実態を反映していない。
しかし,なぜ非正規雇用のイメージと実態にギャップがあるのだろうか。その理由は非正規雇用の性質が景気変動によって大きく変化してしまうためである。以降では,非正規雇用が過去の不況期と好況期においてどのようなものであったかを説明する。
① 不況期の非正規雇用
非正規雇用のイメージを決定的に悪化させたのは,リーマンショック以降に急増した派遣切りである。
- 派遣切り
- 派遣社員の契約を打ち切ること。または,人材派遣会社により解雇されたり契約更新を拒否されたりすること。
景気悪化で多数の企業が労働派遣契約の更新を停止した結果,派遣労働者の数は激減した。
失業者の急増は社会問題となり,年末には日比谷公園に年越し派遣村が設営され,大きなインパクトを与えた。
派遣労働者が急増したのは2004年の改正労働者派遣法以降である。したがって,派遣切りの問題自体は比較的新しい。実際,大手新聞が「派遣切り」という言葉を使ったのもこの時が最初である。
なお,当時のマスメディアは派遣切りと非正規雇用の問題をほとんど同じものとして扱った。非正規雇用という言葉にネガティブなイメージを持つ人は,この時期の印象が強い影響を与えているとみられる。
国会召集日の1月5日。舛添厚生労働相が閣議後会見で製造業派遣の禁止検討を切り出し,雇用国会の幕が開いた。製造業を中心とした非正規社員の大量解雇,正社員のリストラが社会問題化し,東京・日比谷公園の「年越し派遣村」の衝撃が厚労相の背を押した。
―― 朝日新聞(2009年3月3日朝刊)
18日に公示された衆院選では本格的な政策論争を行って,非正規雇用問題の抜本見直し策を有権者に問うべきだ。「派遣切り」が急増し,東京・日比谷公園で昨年末から展開された「年越し派遣村」に関心が集まり,当面の対応策は実施された。しかし,肝心の法整備を含めた対策では,国会の動きは鈍かった。
―― 毎日新聞(2009年8月19日朝刊)
雇用が不安定という点においては派遣労働者のみならず,ほかの非正規雇用(パート,アルバイト,嘱託など)も同じである。したがって,上記の記事は偏向報道というわけではない。しかし,こうした報道が繰り返されるうちに,
非正規雇用 = 派遣村にいるようなギリギリの生活をしている人たち
というイメージが醸成されていったと考えられる。
② 好況期の非正規雇用
景気が好転してくると,非正規雇用の中身も変化してくる。実際,アベノミクスでも非正規雇用が増加するなかで,不本意非正規雇用労働者については減少しており,リーマンショック直後のような状況にはない。
そもそも,非正規雇用の半数はパート・アルバイトであり,主婦や学生など,もとより正規雇用を希望していない人が多い。特にアベノミクスでは女性のパート・アルバイトが急増した。これが非正規雇用増加分の半数以上を占めている。
一方,派遣社員は非正規雇用全体の1割にも満たない。特に年越し派遣村でイメージされるような30~50代の男性派遣社員は約1%程度である。
もちろん,数が少ないからといって,問題を無視していいわけではない。実際,上記のゾーンに限定すれば,依然として不本意非正規雇用労働者は多い(ただし,減少傾向にはある)。
すなわち問題の本質は,
- 景気が良くなって働きに出ているパート主婦
- 派遣村でイメージされる中高年男性の不本意非正規雇用労働者
をどちらも「非正規雇用」という言葉でひとまとめにして扱っていることにある。雇用や賃金を非正規雇用全体で判断すれば,本当に支援を必要としている人たち(不本意非正規雇用労働者など)に補助が回らなくなるだろう。一方,派遣村に集まっていた人などを念頭に「正規雇用化を義務付ける」などの施策を非正規雇用全体に行うことは,パート主婦などにとってありがた迷惑でしかない。
さらに上記とは別に,景気が回復すると,積極的非正規雇用労働者も増えるようになる。たとえば,以下の記事はアベノミクス初期に掲載されたものだが,「非正規の就労形態」を肯定的に扱っていることがわかる。
最高の人材にとって,「非正規の就労形態」を追い求めるのは驚くことではない。むしろ,働き方を選べる立場の人材が正規雇用を望むほうが意外であろう。
企業は有能な人材に合わせる。このため企業側は,正規雇用以外の働き方を好むプロフェッショナルが増える状況下で,彼らといっしょに仕事をする方法を模索する。
―― DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー(2013年5月号)
たとえば,派遣アナウンサーや派遣ケアワーカーなど,派遣先の正社員よりも高給で働くような人材(専門派遣)などはこれに該当する。彼らの実態は個人事業主(フリーランス)[1]に近い。景気の好転で失業不安が低下すると,安定性よりも自由度が選好されるようになるため,こうした就労形態が増加する傾向がある。
ただし,積極的非正規雇用であっても雇用が不安定であることには変わりない(この点はフリーランスも同様である)。その問題は第7章で詳述するが,この極端な例として,「バブル期のフリーター」が挙げられる。今では考えられないが,当時の日本においてフリーターは「かっこいい生き方」とされていた。
今日ではにわかに信じられないかもしれませんが,1990年代前半にバブル経済が崩壊するまではフリーターは,敷かれたレールに満足せず夢を追いかける若者たちとして,なかなか見所があると時にはもてはやされていたのです。
―― 高橋祐吉,鷲谷徹,赤堀正成,兵頭淳史『労働の論点』
非正規雇用の実態は好況期と不況期で大きく異なるが,その根本的な原因は
景気動向によって,「保護」の相対的な価値が変動するから
である。
正規雇用 | 非正規雇用 | |
---|---|---|
メリット | 強い保護 高い安定性 |
弱い拘束 高い自由度 |
デメリット | 強い拘束 | 弱い保護 |
リーマンショックで非正規雇用の保護の弱さが盛んに指摘されたよう,不況期は保護に対するニーズが高まる傾向にある。一方,どこにでもすぐ就職できるような好況期であれば保護の価値は相対的に低下する。むしろ正社員として縛られることへのデメリットを指摘する声が目立つようになるだろう。
したがって,
非正規雇用 = かわいそうな人
というイメージは不況期につくられたものであり,それを好況期にまで引っ張ると,実態を正しく認識できなくなる。
この考え方だと,好景気のときは非正規雇用が相対的に有利になるから,「正規雇用=かわいそうな人」になるってことになるよね?でも正規雇用がかわいそうなんて言われてるの,ほんとど聞いたことないよ?
上記で引用した記事のように,好況期は正規雇用のデメリットを指摘する声が大きくなりやすい。しかし,正規雇用がかわいそうだと言われるような状況にはならない。なぜなら,好況期では正規・非正規ともに生活水準が向上するからだ。非正規雇用において生活苦の問題が顕在化するのは,彼らが好況期に不利な立場となるためである。
正規雇用 | 非正規雇用 | |
---|---|---|
好況期 | デメリットの指摘増える (ただし,好況期なので支援等は不要) |
積極的非正規雇用増える |
不況期 | 相対的に安定 | 「かわいそうな人」 |
2.非正規雇用の定義
正規雇用・非正規雇用のメリット・デメリットについて簡単に触れたが,以下はそのことについて世間でいわれていることをまとめたものである。
正規雇用 | 非正規雇用 | |
---|---|---|
メリット | 雇用が安定している 福利厚生が厚い 社会的信用が高い |
自由度が高い 契約外の職務は拒否できる 残業や休日出勤がない |
デメリット | 転勤や部署移動がある | 賞与や退職金がない 賃金が低い 雇用が不安定 |
おそらく,これが世間の正規・非正規に対するイメージだろう。しかし,意外に思われるかもしれないが,正規雇用・非正規雇用という言葉に法的な定義は存在しない。もっと言えば,
正規雇用と非正規雇用は法律上同格
である。
そんなの嘘だ!非正規雇用の保護が弱いことは常識じゃないか!実際,非正規雇用は差別的な扱いを受けているぞ!
非正規雇用が不安定なのは事実だが,厳密にいえば,それは非正規雇用の制度に直接の原因があるわけではない。別ページで詳述するが,不況期になると企業が非正規雇用を優先的に解雇するため,結果として「非正規雇用が不安定」という認識が持たれているのである。
なお,一般に「非正規雇用の定義」とされているものは2012年の厚労省見解[2]に基づいている。具体的には以下のすべてに当てはまるものを正規雇用,それ以外の「すべて」を非正規雇用としている。
- フルタイム労働(パートタイム労働ではない)
- 無期雇用契約(雇用契約期間が定められていない)
- 直接雇用(労働者派遣事業所などから派遣されてきた労働者ではない)
字面だけ見れば,「非正規雇用」の方が例外であるかのように感じられる。しかし実態は,上記全てを満たさなければならないという点で,正規雇用の方が特殊な仕組みなのである。
非正規雇用:慣習か格差か
正規雇用・非正規雇用とは何らかの法律等で定められた制度ではなく,もともとは日本企業の慣習などによって自然にできた仕組みであった。その観点に立てば,正規・非正規の本質は
- 正規雇用:日本的雇用慣行(特に長期雇用)と整合的になるようにつくられた働き方
- 非正規雇用:日本的雇用慣行外の補完的な働き方(短期雇用など)
にあるといえる。
したがって,「正規雇用は保護されている」「非正規雇用は保護が弱い」といわれるが,その「保護」を提供しているのは政府ではなく企業の方だ。企業が進んで保護を提供する理由は,
労働者が長期にわたって勤続すること
を想定しているためである。要するに,正規雇用に与えられる「保護」は企業が労働者を独自のルールで強く縛ることとセットになっている。
正規雇用 | 非正規雇用 | |
---|---|---|
メリット | 企業に保護される | 企業に縛られない |
デメリット | 企業に縛られる | 自己責任 |
逆の言い方をすれば,正規雇用という仕組みは長期雇用慣行のなかで必然的に生まれたものだった。第3部で詳述するが,正規雇用の特徴として挙げられる
- 無期雇用,フルタイム労働
- 福利厚生,手当
- 転勤,部署移動
- 年功賃金
などは,いずれも長期雇用慣行の特徴そのものである。
一方,非正規雇用とはこれに該当しないすべての働き方だ。すなわち,特定の企業が定めたルールに縛られない労働者のことである。
非正規雇用が企業のルールに縛られない人だって?かっこよく言っているが,結局は企業に保護されない人たちって意味じゃないか!それが格差じゃなくて何だというんだ!
確かに現代の日本で非正規雇用問題は格差問題として認識されている。ただし,正規・非正規という概念が生まれたころからそうだったわけではない。当時の非正規雇用とは,
保護されない労働者
というより,主に
時限的に手伝う企業外部の労働者
であり,正規・非正規が上下関係であるという認識もほとんどなかった[3]。両者が「格差」にあたると言われ始めたのは1990年代後半に入ってからである。
それでは,なぜ1990年代から認識が変わったのだろうか。それはバブル崩壊で長期不況へと突入し,非正規雇用のデメリットが強く表れるようになったからだ。すなわち,非正規雇用の格差問題とは制度の問題というよりマクロ経済の問題なのである。
正規雇用と非正規雇用にはそれぞれメリットとデメリットがある。本来一長一短であるはずの非正規雇用が「格差」とされるのは,そのデメリットばかりが顕在化する環境(不況)が続いてきたからだ。すなわち,非正規雇用問題で最も優先されるべきは,
不況の解決(マクロ経済問題)
である。
いやいや,景気がよくならないから雇用制度を改正して格差を是正しようとしてるんでしょ?景気がよくなれば何でも解決できるなんてのは暴論だよ。
このように思った人もいるだろう。しかし,第3部 Part3で述べるよう,実際には制度改正の方が圧倒的にコストは大きい。大前提として,
- マクロ経済政策:運用の問題
- 制度改正:ルールの問題
であり,マクロ経済政策ならば現行の法制度内で対処可能である。
マクロ経済にかかわらず,いかなる場合においても,「運用の変更」で対処可能な問題を「ルールの変更」で対処しようとすれば労力と時間は余計にかかる。そもそも,運用をまともに理解できていない人が考案するルールなど,「改正」になるはずがない。
このような経済政策と非正規雇用の関係については第8章で説明することとし,次の第7章では,非正規雇用と密接に関係する「多様な働き方」について説明する。