Theme 4:アベノミクスの問題点
第9章 賃金動向をめぐる論争
第8章において,アベノミクスの問題は
賃金が上昇していないこと
にあると述べた。これこそが「バブル期並み」に対する違和感の正体である。
こう聞いて,次のような感想を持った人もいるだろう。
実質賃金が下がってるって話だろ?そんなの知ってるよ!俺はアベノミクスの問題点としてずっと前からそのことを指摘していたぞ!
一方,これとはまったく逆の感想を持った人もいるはずだ。
結局「実質賃金ガー」とかいう統計を理解していないやつの話か!アベノミクスで実質賃金が下がっているのは統計上そう見えるだけなのに!
上記2つの異なる見解を,当サイトでは実質賃金論争と呼んでいる。
- 批判:実質賃金が下落しており,アベノミクスは問題だ
- 反論:実質賃金が下落しているのは,統計上そう見えるだけ
第9章では,それぞれの見解について統計を用いて確認し,最後にアベノミクスの問題点を総括する。
1.実質賃金論争の概要
まず,一般に実質賃金として持ち出される毎月勤労統計から確認する。
- 毎月勤労統計
- 賃金や労働時間に関する統計調査。厚生労働省が毎月公表しており,GDPや雇用保険の計算にも用いられる。2019年に統計不正問題が発覚して話題となった。
この統計によれば,アベノミクスにおいて,名目賃金は上昇しているものの,実質賃金は低下を続け,過去最低水準となっている[1]。
名目賃金が上昇して実質賃金が下落しているということは,
ひとり当たりの給料は増えているが,それ以上に周りの物の値段が上がっている
ということを示している。ただし,「周りの物の値段が上がっている」というのは,一般にいう「インフレ」ではなく,消費税増税の影響がかなりの部分を占めている。
物価上昇の影響だけでならば,アベノミクスの期間(2013~19年),実質賃金の水準はそれほど低下していない。実質賃金を低下させた主要因は,インフレ目標ではなく消費税増税(財政再建)にある。したがって,以下のような認識は誤りといっていい。
安倍政権のインフレ政策によって物の値段が高騰し,国民の生活は苦しくなっている。でも賃金は変わらないから,実質賃金はその分だけ下落している。
① 実質賃金批判
実質賃金が下落しているという指摘は,おそらくアベノミクスに対する(統計に基づいた)批判のなかで最も多い。たとえば,以下は枝野幸男代表(立憲民主党)が安倍首相(当時)の施政方針演説に対して行った代表質問である。
国内経済についても,政府は戦後最長の景気拡大局面が続いているとの説明を繰り返していますが,多くの国民はその実感を全く持っていません。実質賃金はふえず,消費は拡大せず,多くの人が社会保障の負担増や自分の老後の不安におびえています。
―― 衆議院本会議(第198回国会,第2号,2019年1月30日)
この時期に統計不正の問題が明らかになり,政府はさらに激しい批判を浴びることとなる。
「毎月勤労統計」の不正調査で,2018年の「実質賃金」の大半がマイナスになる可能性があることがわかり,野党が安倍政権への追及を強めている。「名目」と「実質」の違いが,景気回復の実感に乏しいアベノミクスの弱点を改めて浮かび上がらせている。
―― 朝日新聞(2019年2月1日東京朝刊)
このように,問題の本質が「雇用量」ではなく「賃金」にあるという主張は,当サイトが指摘するまでもなく,既に何度も行われてきた。
② 就業者数増加説
ただし,上記の指摘には反論も存在する。それが就業者数増加説だ。具体的には以下のようなものである。
実質賃金は「1人当たり」の賃金。これだけ労働力が増えてるんだから1人当たりは減って当たり前。賃金総額は名目でも実質でも増加している。
すなわち,
賃金は増えているものの,それ以上に就業者数が増えているので,1人あたりになおすと「統計上」下落して見える
という説明である。第3章で見た通り,就業者数の増加はほとんど女性と高齢者だ。仮にアベノミクスで配偶者が働き始めた家庭ならば,1人当たりの賃金は下落しても1世帯当たりの収入は増加している可能性が高い。
実際,安倍前首相も労働者数増加説に則った説明をしている。以下は,山井和則議員(無所属,当時は民進党)の質問に対する答弁だ。
そこで,御指摘の実質賃金の減少についてでありますが,景気が回復し雇用が増加する過程において,パートで働く人がふえていくと一人当たりの平均賃金が低く出ることになるわけでありまして,私と妻,妻は働いていなかったけれども,景気はそろそろ本格的によくなっていくから働こうかと思ったら,働き始めたら,我が家の収入は例えば私が五十万円で妻が二十五万円であったとしたら七十五万円にふえるわけでございますが,二人が働くことによって,二で割りますから,平均は,全体は下がっていくということになるわけでございます。
―― 衆議院予算委員会(第190回,第2号,2016年1月8日)
なお,マスメディアや野党はこの説明そのものではなく,「妻のパート25万円」という部分に飛びついた。これがパート25万円発言問題の正体である。
13日の衆院予算委員会で,安倍晋三首相が8日の質疑で触れた「女性のパート労働」をめぐる論争が再び繰り広げられた。首相が「景気がよくなったので(妻が)働こうと思った」とのたとえについて,民主党の山尾志桜里氏は「感覚がずれている」と批判。首相が「揚げ足取りだ」と反論するなど,激しいやり取りが続いた。
―― 朝日新聞(2016年1月14日朝刊)
問題の焦点がずれていったことで,実質賃金論争はほとんど取り上げられなくなってしまった。以降では,国会に代わって,当サイトがその検証を行うこととする。
2.実質賃金論争の検証
上記の実質賃金論争について,
- 批判:アベノミクスで実質賃金が下落した
- 反論:1人あたりの実質賃金が下落しているのは労働力が増えているから
のどちらが正しいかを検証するためには,
- 賃金総額 = 労働力 × 賃金
を見ればよい。1人あたりの実質賃金が減っていたとしても,支払われている賃金総額が増えていれば,就業者数増加説が正しいということになる。
① 就業者増加説の検証
日本全体や世帯単位での賃金動向を確認できる統計には以下のようなものが挙げられる。
- ①GDP統計(雇用者報酬)
- ②法人企業統計(従業員給与・賞与)
- ③家計調査(勤め先収入)
①GDP統計:雇用者報酬
まず,GDP統計から確認する。日本全体の給与総額をみるうえでは,GDP統計の雇用者報酬が最も正確な数値と考えられる[2]。
- GDP統計
- 国民経済計算と呼ばれ,国際的にも計算方法が統一されている。内閣府から四半期に1度公表される。雇用者報酬はGDPのうち雇用者(家計)へと支払われた分。役員報酬などは含まれるが,自営業主の所得などは含まれていない。
確かに日本国全体で見れば名目・実質ともに賃金は増加基調にある。
②法人企業統計:従業員給与・賞与
次に,法人企業統計の従業員給与・賞与だが,これは企業の会計情報(人件費)を集計したものである。
- 法人企業統計
- 日本企業の財務データなどを集計した統計。財務省から四半期に1度公表される。人件費には役員報酬や福利厚生なども含まれている。
雇用者報酬ほどの増加はみられないが,これは法人企業統計に医療法人や社会福祉法人などが含まれていないためだと考えられる[3]。ただし,法人企業統計においても実質賃金はコロナ禍まで緩やかな増加基調で推移してきた。
③家計調査:勤め先収入
最後に,家計調査の勤め先収入を確認する。これは「1人あたりの給与所得」ではなく「1世帯あたりの給与所得」を表している。
- 家計調査
- 家計に対するアンケート調査。企業側ではなく家計側を対象にした唯一の基幹統計だが,調査対象となる家計の影響を受けやすく,誤差が大きいことが指摘されている。
安倍前首相が述べていた通り,1世帯あたりの給与所得は増加しており,実質賃金の低下で生活が苦しくなっているという状況にはないことがわかる。
② 鈍い賃金上昇ペース
以上の検証より,就業者数増加説は正しい。実質賃金が下落しているように見えるのは統計上の効果と結論づけてよいだろう。
なんだ,じゃあこのサイトが言ってる「賃金が上昇していないことが問題」というのは嘘じゃないか!
確かに,実質賃金は総額でみれば増加している。しかし,その賃金上昇ペースには問題があると言わざるを得ない。たとえば,以下は法人企業統計の賃金と企業利益の変化を示したものだ。
アベノミクスの期間,賃金はほとんど横ばいだが,企業の営業利益は約10兆円増加している。第2部で説明する通り,賃金と利益を直接比較することに必ずしも意味があるわけではない。しかし,このグラフを見れば
アベノミクスでは利益と賃金が乖離しすぎなのではないか
と感じるのが普通だろう。
そもそも,「バブル期並み」の失業率を記録しながら,賃金がこの程度しか伸びていないというのは過去に例がない。一時的な現象ならまだしも,数年にわたって続いているとなれば,
就業者数増加や企業利益増加のペースに対して,賃金上昇のペースが鈍い
という可能性を疑うべきだろう。
③ 政府の認識
この事実は政府もある程度認識していたと考えられる。たとえば,内閣府が2017年に公表した経済白書[4]には,以下のような記述がある。
ただし,過去と比べると,引き締まりつつある労働需給の割には賃金や物価の上昇が緩やかなものにとどまっている。
―― 平成29年度 年次経済財政報告
また,以下は首相官邸HPに掲載されている,アベノミクスによる「経済の好循環」のイメージ図だ。
アベノミクスは「デフレ脱却」をスローガンに,「2年で2%のインフレ率達成」を目指していた[5]。しかし,現実には8年たっても1%にすら達していない。
つまり,物価上昇率2%達成という点において,アベノミクスは失敗したのである(ただし,第2部以降で述べるよう,歴代政権と比べれば最もマシな経済政策ではあった)。では,アベノミクスはどこでつまずいてしまったのだろうか。上記「経済の好循環」の図をもとに考えるならば,
- 企業業績の改善:企業の営業利益・経常利益は過去最高を更新し続ける
- 投資の拡大:設備投資はバブル崩壊以降,初めて本格的に増加(第2部で説明)
という事実から,
- 賃金の増加:目立った増加がみられていない
の段階で足踏みしていたと考えるのが妥当だろう。前述の通り,「企業業績の改善」と比較すれば,「賃金の増加」はあまりに弱い。
アベノミクスの問題は鈍い賃金上昇ペースにある。これが第1部の結論だ。しかし,そうなると次のような疑問が浮上する。
企業業績が改善しているにもかかわらず,賃金がそれほど伸びていないとなれば,企業の利益はいったいどこに向かっているのだろうか
第2部では企業利益の行方を探り,賃金が上昇しない原因を究明していくことにする。
3.供給促進政策の問題
最後に賃金の上昇を抑制している安倍政権の政策についてひとつだけ触れておきたい。それは,働き方改革である。
- 働き方改革
- 政府が「一億総活躍社会」の実現を目的として導入した労働環境の見直し政策。①長時間労働の是正,②正規・非正規格差の解消,③多様な働き方,が「3つの柱」に据えられている。
厚労省によれば,働き方改革は以下の2つを目的としている。
- ①少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少
- ②育児や介護との両立など,働く方のニーズの多様化
すなわち,働き方改革は労働供給を促進する政策といえるが,結論からいえば,こうしたコンセプトに基づく政策が賃金上昇の足を引っ張っている。
第8章で述べた通り,脇田教授は労働市場が
数量 → 価格 → 品質
の順で改善すると述べているが,供給促進政策はさらにその後にくるものだと指摘している。
先に問題は失業・賃金低下・非正規と述べましたが,後述するよう,これらの3つの問題は失業者が減ってはじめて賃金が上がりだす(フィリップス曲線)ように,この順で問題が解消します。その後に供給側の「量」の議論を考えれば良いのであって,同時並列的に考える必要はありません。多くの供給促進政策は時期尚早であり,政策発動のタイミングを誤っています。
―― 脇田成『賃上げはなぜ必要か』
働き方改革などの供給促進政策そのものが間違っているというわけではない。問題はその実施時期がおかしいことにある。
① 需要回復前の供給促進政策
たとえば,世の中に山ほど失業者がいる状況において,さらなる労働者を流し込んだらどうなるだろうか。そっくりそのまま失業者が増大するだろう。
このように,労働需要(企業の求人数)を増やすことなく労働力(求職者数)を増大させる政策は,雇用問題をかえって悪化させることになる。
アベノミクスで失業者は減少しているじゃないか!今は失業者があふれている環境にはない!つまり,働き方改革で失業者が増えるような状況にはない!
確かに数量の問題は既にクリアしている。したがって,アベノミクスは以下のような状況にあったと考えられる。
失業者は増えていないが,賃金もほとんど上昇しないという状態だ。第2章から述べている通り,アベノミクスで労働力人口は急増しているが,こんな環境で賃金など上がるはずがない。
何を言っているんだ!今は人手不足で大変なんだ!労働力を増やす働き方改革は急務だ!企業に倒産しろと言っているのか!
このように「人手不足」を問題視する意見は多い。外国人労働者の受入拡大もこの延長線上に位置づけられている。
日本企業の存続を人手不足が脅かしている。アベノミクスによる好景気で倒産件数全体はバブル景気時に匹敵する低水準にもかかわらずだ。競争力が弱い中小零細企業が人材獲得競争のしわ寄せを受けており,政府は外国人労働者の受け入れを拡大する方針。
―― 産経新聞(2018年10月15日東京朝刊)
しかし,これまで述べてきた通り,そもそも賃金は人手不足にならなければ上昇しない。アベノミクスで企業が多額の利益を計上しきたことを説明したが,これを見て,
たくさん儲けてるんだから,少しくらい給料を増やしてくれよ!
と思った人もいるだろう。しかし,それは論拠にならない。なぜなら,企業にとって賃金とは費用に該当するからだ(人件費)。
たとえば,経営者が「たくさん儲けているから」という理由だけで,土地や原材料を通常よりも高額で購入したとなれば,それは「無駄遣い」と判断されるだろう。本来負担する必要のない費用を支払うことは,株主に対する背信行為だ。同様に,
今現在,賃金を上乗せしなくても十分に労働力が確保できる
という状況ならば,経営者が賃金の引き上げという決定を下すことは基本的にあり得ない。言い換えれば,
賃金を上乗せしなければ労働力が確保できない
という状況(人手不足)だけが賃上げを正当化できるのである。
② デフレ産業の人手不足
それでは,なぜ「人手不足で困っている」という話が注目されたるようになったのだろうか。その理由は,
長期不況で,構造上,賃金を上げることが難しい産業が増えたから
にほかならない。アベノミクス以前の20年で,企業は不況に適用したビジネスモデルを構築していった。第2部で述べる通り,人手不足で最も悲鳴を上げていたのは低価格戦略を武器としたデフレ産業である。
日本マクドナルドや吉野家など低価格を武器に「デフレ時代の勝ち組」と呼ばれたファストフード業界の苦戦が続いている。輸入原材料価格の上昇や人手不足に伴う人件費の高騰で値上げを余儀なくされたことに加え,総菜を充実させているコンビニエンスストアの攻勢にさらされているためだ。各社は健康志向のメニューを出すなど低価格以外の魅力を高めようと躍起だが,販売てこ入れの道のりは険しい。
―― 産経新聞(2018年10月15日東京朝刊)
こうした業種は,賃金の引き上げがビジネスモデルの見直しに直結するため,相対的に大きな打撃を受けることとなった。もっとも,それは
景気が回復して,不況型のビジネスが回らなくなった
ということでもあるため,当然ながら,上記の「人手不足」は経済失政に該当しない。
③ 需要回復後の供給促進政策
一方,労働需要が逼迫し,賃金が過度に上昇しているときであれば,供給促進政策は大きな効果を上げる。
賃金が上昇しているのに,何でそれを抑える政策を行わなければならないのか!
こう思った人もいるかもしれないが,賃金上昇率が高すぎると,今度は供給能力の不足(インフレ)が問題として浮上してくる。言い換えれば,供給促進政策が意味を持つのはインフレが問題となっている経済においてである。
それでは,安倍政権が供給促進政策を実施した時期は適切だったのだろうか。働き方改革が政策の中心に据えられたのは2015年10月で,その時期はインフレが問題になっていたどころか,むしろデフレ脱却すら道半ばという状況にあった。明らかに時期尚早である。需要増強(デフレ脱却)が不十分なときに供給増強(インフレ対策)を始めたのだから,賃金が上昇しないのも,インフレ率が目標の2%に届かないのも,当然のことであった。
第3部で詳述するが,アベノミクスは政策コンセプトに問題があったわけではなく,
政策がコンセプト通りに実施されなかったこと
に問題があった。上記の働き方改革もそのひとつである。アベノミクスが失敗した理由は,デフレ脱却の方針と異なる政策が「きわめて早いタイミングで」実行されてしまったことにあったといえる。
- ^1当サイトに掲載されている統計は不正発覚後に修正したものを用いている。なお,不正の詳細については別ページで説明している。
- ^2雇用者報酬を含むGDP統計(国民経済計算)は既存の統計を組み合わせた二次統計であり,多くの経済統計が総合されているという点で信頼性が高い。もっとも,その統計には毎月勤労統計も使われているため,2019年の不正統計問題の影響が及んでいる。これを受けて,内閣府は2019年10月に雇用者報酬を再推計して公表した。
- ^3高齢化を受けて医療・福祉分野での従業員は増加しているが,そのうち7割以上が企業以外の形態(医療法人・社会福祉法人など)で運営されている。
- ^4平成29年度 年次経済財政報告:第1章 第1節(2017年7月,内閣府公表)。
- ^5アベノミクス「第1の矢」である量的・質的金融緩和を実行した黒田東彦日銀総裁は2013年3月21日の就任記者会見で「2年で2%」の達成を目標にすると繰り返し述べている。