第1部 - 1:労働市場と統計データ(総論)

Theme 3:非正規雇用問題の本質

8章 労働市場改善のプロセス

第6~7章では,

  • 非正規雇用は自発的に選択している人が大半(第6章)
  • ただし,それが望ましいかどうかは別問題(第7章)

ということを述べた。しかし,雇用の中身がどうなっているかということ以上に重要な問題がある。それは,

景気回復が起こると,正規雇用より非正規雇用が先に増加する

ということだ。アベノミクスで非正規雇用が増加したことを批判している人たちは,この事実を見逃している可能性が高い。実際,アベノミクスの問題点を理解する上ではこの順序に関する認識が決定的に重要になる。

1.景気回復の順序

脇田成教授(東京都立大学)は労働市場の問題について,

  • 数量:失業率増大の問題
  • 価格:賃金所得減少の問題
  • 品質:非正規雇用化の問題

の3つに分けたうえで,問題はこの順序で解決していくと述べている。

先に問題は失業・賃金低下・非正規と述べましたが,後述するよう,これらの3つの問題は失業者が減ってはじめて賃金が上がりだす(フィリップス曲線)ように,この順で問題が解消します。

―― 脇田成『賃上げはなぜ必要か』

この順序という観点はきわめて重要となる。第3部で詳述するが,日本の重大な経済失政のひとつはこの順序の誤りによって引き起こされといっていい(短期-長期の誤謬)。

① 景気回復と雇用

まず大前提として,雇用動向は景気動向に遅行する。景気回復で生産が拡大すると,当初,企業は労働時間を増やすことで対応しようとする。それが難しくなると,ようやく「新たに人を雇おう」という話が出るようになる。

なお,この段階で必要とされるのはもっぱら非正規雇用である。以下はその理由だ。

  • 正規雇用は採用手続き(保険加入など)に時間がかかるため
  • 景気回復が一時的なものかもしれないため(一時的な需要増をしのぐだけならパートやアルバイトの方がいい)
  • 不足している仕事が既存業務のため(企画立ち上げなどの中枢業務ではない)

言い換えれば,企業が正規雇用を増やすのは,

  • 景気回復が軌道に乗り,新規事業など業務拡大を行うようになって以降

である。したがって,景気回復の初期段階では非正規雇用の方が増えやすい。これが上記プロセスの数量改善の段階にあたる。

② 数量から価格へ

数量の改善が続くと,今度は価格改善が生じるようになる。このプロセスを最初に体系的な理論として示したのが経済学者J.M.ケインズだ。

このような過少雇用が存在するために,有効需要が増加するにつれて,たとえ実質賃金が現行水準に等しいかあるいはそれ以下であっても,雇用は増加し,そして最後には,そのときの現行賃金の下では利用可能な余剰労働が全く存在しなくなるような地点に立ち至る。

―― J.M.ケインズ『雇用,利子および貨幣の一般理論』

おそらくこれだけでは何を言っているのかわからないと思われるため,ケインズの主張を簡略化して説明する。

不況期に非自発的失業者(働きたいけど働き口がない人)が生じる理由は,いくつかの要因[1]によって労働供給曲線が屈折しているためとされている。このことはマクロ経済学において賃金の下方硬直性として知られている。

上記のグラフは,

時給1,000円で働きたい人はそれなりにいるが,企業の労働需要が少ないため,失業者としてあふれている

という状態を示している。このように,ケインズ経済学[2]では失業者が山ほどいる状態で市場が均衡するようなケースが想定されている(短期均衡)。

それでは,この状態から景気回復が始まり,労働需要が増加するとどうなるだろうか。労働需要曲線が右にシフトし,失業者は減少する

企業の労働者に対する需要が増えたら,失業者は減るに決まってるだろ!そんな当たり前のこと,いちいち言われなくてもわかるわい!

こう思うかもしれないが,ここで重要なのは賃金水準が全く上昇していないということである。労働需要が増加し始めたばかりの頃は,まだ世の中に失業者があふれている。そのため,企業は賃金水準を上げることなく労働者を増やすことができるのだ。したがって,景気回復当初から賃金が上昇しなかったとしても,それは上記主張の通り「当たり前」である。

賃金が上昇し始めるのは労働需要がさらに増加したときだ。非自発的失業者がいなくなる(完全雇用)と,企業は人材を確保するために賃金の引き上げを始めるようになる。

どこも雇ってくれないような不況期ならいざ知らず,どこの企業でも人材を募集しているというような状況になれば,労働者は賃金の高い企業を選択するだろう。これが上記プロセスの価格改善の段階にあたる。

なお,こうしたケインズの主張は統計的にも裏付けられている。たとえば,以下は日本のフィリップス曲線だ。

フィリップス曲線
インフレと失業の関係を示した曲線。ただし,上記のグラフはインフレ率ではなく賃金上昇率を使っており,狭義のフィリップス曲線とは異なる。

失業率と賃金上昇率の関係が曲線になっている。このグラフによれば,日本において,失業率が5%から3%に下がったとしても,賃金はほとんど上昇していない(数量改善段階)。しかし,失業率が2.5%くらいまで下がると賃金上昇率は明確に引き上がり,さらに2%を下回る段階では一気に跳ね上がっている(価格改善段階)。

③ 価格から品質へ

賃金上昇が進むと,今度は賃金以外の待遇が改善され始める。このことは,マクロ経済学において古典派の第2公準,より一般的な意味では,ミクロ経済学において限界代替率低減として知られている。

なお,少し経済学を勉強した人ならば,第2公準と聞いて,

古典派の第2公準だって?それはケインズが間違っていると否定したものじゃないか!

と思う人もいるだろう。しかし,厳密にいえば,ケインズが第2公準を否定したのは,上記で述べた数量改善の段階においてのみある。言い換えれば,ケインズは第2公準が価格改善の段階以降においてしか成立しないと主張したのだ。

古典派の第2公準について説明する前に,より広い概念である限界代替率低減について説明する。

限界代替率低減
財Xの消費量が財Yに対して増加した場合,財Xに対する財Yの主観的交換比率は低下していくという考え方。

かなり簡略化していえば,

豊富にあるもの(財X)の相対的な価値は低下していく

ということである。第2公準とはこれに実質賃金余暇(労働の不効用)を当てはめたものだ。

たとえば,以下のような2社がある場合,どちらに就職したいと考えるだろうか。

  • A社:緩い仕事,年収200万円
  • B社:大変な仕事,年収300万円
  • ※ ここでは誰もが「緩くて年収の高い方がよい」という選択を行うと仮定している。

もちろん,人によって選択は変わるだろうが,仮に両社で迷う人がいるならば,それがその人の「年収と忙しさ」における限界代替率である。また,「A社の方がいいが,年収400万円ならB社にするか迷う」という人がいれば,それがその人の限界代替率になる。すなわち,この場合,限界代替率とは年収と忙しさの(主観的な)交換比率のことである。

では,以下の場合ならどうだろうか。

  • C社:緩い仕事,年収2,200万円
  • D社:大変な仕事,年収2,300万円

おそらく,大半がC社を選択すると思われる。このように,水準が引きあがってくると同じ年収格差100万円であっても,限界代替率は逓減していくことになる。古典派の第2公準とは基本的にそのことを示したものだ。

就労選択においては賃金以外にも,

  • 安定性
  • 労働時間
  • 休暇数
  • 勤務地
  • やりがい
  • 福利厚生

など様々な条件が考慮される。日々食うに困るような生活をしている人ならば,最も重要なのは生活を維持できるだけの賃金水準だろう。しかし,賃金水準が上昇し,日々の生活が十分に確保できるようになると,その重要性は相対的に低下する。これが上記プロセスの品質改善の段階にあたる。

雇用の品質(ワークライフバランスなど)は賃金が上がってはじめて議論される内容だ。逆に賃金が低い段階で就労形態の是非を語ることにあまり意味はない。たとえば,

  • E社:正規雇用,年収100万円
  • F社:非正規雇用,年収200万円

であれば多くの人がF社(非正規雇用)を選択するだろう。非正規雇用の増加に対する批判を繰り返している人たちは

賃金上昇なくして雇用形態の問題が解決されることなどあり得ない

という点を見逃している可能性が高い。

2.アベノミクスにおける問題の所在

冒頭に述べたよう,

数量 → 価格 → 品質

という形で労働市場改善プロセスを分解すると,アベノミクスがどこで失速しているのかがわかるだろう。問題の中核は価格の段階,すなわち,

目立った賃金上昇がみられないこと

にある。これこそが「バブル期並み」の違和感の正体だ。

第1章から述べてきた通り,雇用の数量はほぼクリアしている。しかし,バブル期並みなのは失業率や有効求人倍率(数量)だけであって,賃金水準(価格)が急上昇しているわけではない。賃金(価格)が上がっていないのだから,非正規雇用の正規化(品質)が進まないのは当然の話である。

  • 数量:失業率低下(
  • 価格:賃金上昇(×
  • 品質:正規雇用化(×

したがって,問題の本質は「非正規雇用の増加」ではなく「上昇しない賃金」にある。第9章ではこの問題について説明する。

ブラック企業問題

第2部で詳述するが,ブラック企業の問題も「品質」の問題である。

ブラック企業
長時間労働,極端なノルマ,パワハラなど劣悪な環境で労働者を働かせる企業

世間にブラック企業が跋扈するのは,

労働者がブラック企業で働き続けるという選択をとらざるを得ないから

に他ならない。では,なぜ労働者はそのような選択をするのだろうか。それは,

  • 他に雇ってくれるところがないから(高失業率環境:数量が改善していない)
  • 他に高い給料のところがないから(低賃金環境:価格が改善していない)

である。

ブラック企業を問題視する人は,

  • 劣悪な労働環境を是正する(品質の改善)

ということを盛んに訴える。しかし,数量価格が改善していない状態で品質が改善しないことは既に述べた通りだ。

逆に数量価格が改善すれば,ブラック企業は放っておいても消えていくだろう。なぜなら,

  • 労働者:劣悪な労働環境にとどまっている理由がなくなる
  • 企業:労働者を確保するため労働環境の改善に努めなければならなくなる

という状況が生じるからだ。

第2部以降でも説明するが,現代の日本にブラック企業が蔓延する最大の原因は社会や法律にあるのではない。すべては

目立った賃金の上昇がみられないこと

にある。すなわち,ブラック企業問題とは典型的なマクロ経済の問題なのである。

  • ^1労働供給曲線が屈折している理由については別ページで詳述するが,いくつかのマクロ経済学でのテキストでは,簡略化のため,「最低賃金があるから」という説明を行っている。しかし,ケインズ自身はその解釈をとっておらず,また,多くの経済学者が指摘するように,最低賃金法がなかったとしても労働供給曲線は屈折することが指摘されている。
  • ^2一般に「ケインズ経済学」と呼ばれるのは,ケインズの経済学ではなく,ケインズの弟子たち(ヒックスなど)が完成させた経済学のことを指す。当サイトでもその慣習に従い,ケインズの経済学を「ケインズの理論」,ケインズの弟子たちの経済学を「ケインズ経済学」と呼んでいる。