Theme 3:長期停滞をめぐる論争
第8章 デフレ説と構造説
前章に続き,第8章でもこれまで原因究明に関する2つの論争を取り上げる。
これまで「デフレが問題だ」という話を聞いて,
結局安倍政権が言ってた「デフレ脱却」の話そのまんまじゃないか。その話ならもう聞き飽きたよ。
と思った人もいるだろう。しかし,「デフレ脱却」を掲げていた安倍前首相ですら本当にデフレが真の原因だと理解していたのか疑わしくなる発言がいくつもあった。第8章ではその代表である構造説について説明する。
1.構造説と経済失政
たとえば,以下のような主張を聞いたことがある人は多いだろう。
経済がダメになったのは非効率な経済運営にもかかわらず,年寄りたちがその古くさいやり方に固執したから。その構造や体質こそ日本衰退の最大の原因。
日本経済の停滞をなんでも需要不足のせいにする人がいるけど,実際にはグローバル化,IT技術の進展,少子高齢化など様々な要因が複雑に絡み合っているわけで,需要を増やせば不況が解決するというのはいかにも短絡的って感じ。
こうした見方は構造説と呼ばれる。岩田規久男教授(学習院大学)は日本経済停滞の原因について,大きく2つの見方があったことを指摘している。
- デフレ説:経済停滞の原因はバブル崩壊後の需要不足
- 構造説:経済停滞の原因は非効率性な経済構造
なお,岩田教授によれば,失われた10年の間は構造説の方が多数派であった。
しかし,92年から02年までの長期経済停滞の原因については,右に述べたような「デフレ説」ではなく,日本経済の構造改革の遅れが原因であるという「構造説」をとるエコノミストの方が多数派です。
―― 岩田規久男『日本経済を学ぶ』
実際,以下のような「日本経済低迷の理由」は現在でもよく耳にする。
- 先進国になり,成熟社会・成熟経済になったから
- 少子高齢化が進行しているから
- グローバル化に遅れ,世界の環境変化に対応できなかったから
- 従来型の製造業に固執し,IT技術の波に乗り遅れたから
- 日本企業に柔軟な発想がなく,イノベーションが欠如しているから
- 日本的経営が時代遅れで非効率だから
- 公共事業中心の経済政策が時代遅れで非効率だから
- 独自性や創造性を活かす教育がなされてこなかったから
これらはいずれも構造説に該当する。
① 構造説の検証
それでは,日本経済の長期停滞はデフレ経済によるものなのだろうか,それとも構造問題によるものなのだろうか。答えはデフレ経済によるものである(デフレ説)。
何で断言できるんだ!構造説には少子高齢化やグローバル化など様々なものがある!それをひとつひとつ検証せずに,なぜすべて違うと言い切れるのか!
その理由は,構造説に致命的な欠陥が存在するからだ。それは,
急激な変化を一切説明できない
ということである。
しかし問題は,それがなぜ90年代の日本においてのみ,かくもはなはだしい長期停滞の原因となり得たのかである。この疑問に対する回答を含まない限り,さまざまな構造問題をいくら列挙したところで,90年代日本の経済低迷をそれによって説明したことにはならないのである。
―― 野口旭『構造問題説の批判的解明』(原田泰・岩田規久男『デフレの実証分析』より)
野口旭教授(専修大学)が指摘する通り,「需要が減少した」以外に急速な経済変動を説明することはほとんど不可能である[1]。
仮に教育や文化といった構造的な要因ならば,その影響はじわじわと表れるはずだろう。もちろん,日本において構造上の問題はいくつも存在する。しかしそれは日本経済停滞の真の原因ではない。
② 経済失政の理由
しかし,マクロ経済について勉強したことがない人ならば,おそらく9割以上が次のように考えるだろう。
確かにデフレは問題。けど経済構造だって問題は山積み。このままでいいなんてことはないから,どっちかとかじゃなくて,両方取り組むことが必要。
この考え方こそ経済失政を引き起こした大きな要因であった。第3部 Part 2で詳述するが,両方に取り組むことはできない。なぜなら,
デフレ説をとるか,構造説をとるかで,ほとんど政策が真逆になる
という問題があるからだ。したがって,正しい経済政策を実行するうえでは「どちらが真の原因か」を見極めることが最も重要になる。
第1部の「問題特定」からはじめて,第2部では長々と「原因究明」について述べてきた。
その理由は,以下のような主張が対策立案として不適当であることを理解してもらうためである。
日本の労働環境ってマジで終わってる。雇用制度を抜本的に見直すとか,そろそろ大胆な労働市場改革に着手しないと,この国は本当に発展途上国になる。
日本の労働環境が劣悪である原因はデフレ経済だからだ。それゆえ問題の解決に必要なことはデフレ経済からの脱却であって労働市場改革ではない。
そもそもデフレ経済になっても問題の生じない労働制度などどこにあるというのだろうか。イギリスであれフランスであれ,デフレ経済になれば必ず日本と同様の問題が沸き起こる。社会制度の変更を解決策として挙げるのは構造説による「原因の誤認」にほかならない。
2.グローバル化
最後に,構造説のひとつとしてよく取り上げられるグローバル化について説明したい。第2部のPart 2は「グローバル化」だが,グローバル化も第1部で特定した問題(賃金上昇ペースが鈍いこと)の原因となっている。
ただし,グローバル化の問題とは,一部で言われているような
日本はグローバル化の波に乗り遅れた結果,長期にわたって経済が低迷する結果となった
という話ではない。これから示すよう,日本企業は波に乗り遅れるどころか急速にグローバル化を遂げていった。加えて,この変化が構造説に該当しないことも合わせて説明する。
① 日本企業のグローバル化
第3章において,日本企業の投資資産が増加していることについて説明した。法人企業統計によれば,その大半は株式である。
なお,投資資産の拡大は大企業において顕著にみられ,今や総資産の約3割が(固定資産における)株式となっている。
大企業は賃金もろくに支払わず,株で資産を運用しているのか!本業をほったらかしてマネーゲームに金を突っ込むとはけしからん!
このように思った人もいるだろうが,実態はそうではない。固定資産における株式とは,売買目的株式(流動資産における株式)ではなく,政策的に保有することを目的とした株式のことだからだ。
なお,資金循環統計における企業の投資フローをみると,国内株式の購入はほとんど行われていない。したがって,増加しているのはもっぱら外国株式であると予想される。
- 対外直接投資
- 海外現地法人の設立,海外工場の建設,現地企業の買収など。
- 対外証券投資
- 値上がりや配当目的の外国株式・外国債券の購入など。
ストックで見ると,アベノミクス以降,海外投資が顕著に増加している。これは投資資産の動きと整合的である。
日本の企業が海外に現地法人を設立したり,現地企業を買収したりした場合,「日本の本社が海外の子会社の株式を保有する」という形になる(そのため,法人企業統計では「固定資産の株式」として計上される)。すなわち,投資資産の増加とは企業のグローバル化に他ならない。
日本企業は稼いだ利益で,海外の安い土地に工場を建設し,海外の労働者を雇い,海外の消費者に販売する。この場合,国内に資金はほとんど還流せず,当然ながら賃金も上昇しない。すなわち,賃金上昇を抑制している日本企業の問題とは,
デフレ経済とグローバル化
である。
② グローバル化の理由
グローバル化の問題を指摘する場合,よく「底辺への競争」という言葉が用いられる[2]。企業がより製造コストの安い地域を選択しようとするため,結果として労働賃金や社会福祉の切り下げ競争が生じてしまうという現象だ。
実際,先進国の企業が海外に進出するのはコスト削減を目的としているとされている。しかし,日本企業がグローバル化を進めた最大の理由はコスト削減ではなく,需要獲得であった。
すなわち,日本企業の著しいグローバル化もデフレ経済の延長線上にある。企業のグローバル化が経済停滞を招いたのではなく,デフレ不況が日本企業のグローバル化を促進したのだ。
以上より,日本経済停滞の理由を
- グローバル化に遅れ,世界の環境変化に対応できなかったから
とするのは誤りといっていい。環境に適応できなかったどころか,デフレ経済が放置された結果,日本企業は「自分たちの努力でなんとかしなければならない」と考え,グローバル化によって国内需要不足への適応度を高めていったのである。
③ グローバル化の構造問題
なお,上記のような企業の対応を評価する意見も多い。
企業が政府に頼らず自力で需要を獲得しに行くのはよいことじゃないか!自由経済のあるべき姿だ!
しかし,このことによって政治・経済上の重要な問題が浮上する。それは利益相反の問題だ。
たとえば,第1部で説明した「賃金上昇ペースの鈍さ」もそのひとつである。企業がグローバル化すれば,賃金はますます上昇しにくくなるだろう。国内労働者の賃金を低く抑えられていた方が生産コストは下がるため,企業の利益は大きくなる。
いや,そんなことしたら家計の消費が減るから,企業の製品はもっと売れなくなるよね?自分たちに跳ね返ってくるだけじゃん!
しかし,グローバル化するほど国内需要縮小のダメージは自分たちに跳ね返ってこない。なぜなら,国内需要が縮小しても,海外需要で利益を出せるからだ。商品の生産地(供給国)と消費地(需要国)が異なっている企業ほど,生産地の需要縮小はマイナスどころか(賃金コスト抑制という点で)むしろプラスに働く。すなわち,グローバル化が進むほど,
企業と国民の利益が乖離する
という問題が発生する。このことについては第2部 Part 2で詳しく説明する。