第2部 - 1:企業行動とデフレ経済(デフレ経済)

Theme 2:デフレ経済の理論

6章 節倹経済

2012年12月に「デフレ脱却」を掲げた安倍政権が成立したが,政治思想の左右を問わず安倍政権でのデフレ脱却が不十分であったとする主張は多い。

7年8カ月の長きにわたった第2次安倍政権は,28日の安倍晋三首相の辞任表明により,9月中にも終焉(しゅうえん)を迎えることとなった。(中略)

経済もコロナ下での立て直しはまったく見通せない。首相は28日の記者会見で,政権の成果として「20年続いたデフレに三本の矢で挑み,400万人を超える雇用を作り出した」と訴えたが,「デフレ脱却」は達成できていない

―― 毎日新聞(2020年8月20日)

A:狭義のデフレと広義のデフレ

もっとも,インフレ率自体は安倍政権成立から半年後の2013年6月にマイナスからプラスへと転じている。

なんだ!アベノミクスってほとんどインフレじゃん。なら,デフレは脱却してたってことなんじゃないの?

しかし,第4章で述べた通り,「デフレ脱却」のデフレとはデフレ経済(広義のデフレ)のことである。

  • 狭義のデフレ:一般物価水準の継続的下落
  • 広義のデフレ:需要不足,設備投資縮小,金融収縮などを含んだ現象の総体
  • デフレと不況
    2つの意味で使われる「デフレ」という用語(第4章 - 1)

安倍前首相はたびたび「デフレ脱却は道半ば」と述べており,任期中にデフレ脱却宣言も行われなかった。したがって,政府も「インフレ率0%以上=デフレ脱却」とは考えていなかったことがわかる。

B:節倹経済

このサイトではインフレ率がプラスのデフレ経済(狭義のデフレではないが広義のデフレである状態)のことを節倹経済と呼んでいる。

インフレ率 経済状態 特徴
5%超 過熱経済 消費や投資が過熱気味
2%程度 通常の資本主義 巡航速度の資本主義経済
0~1%程度 デフレ
経済
節倹経済 弱い需要,循環に目詰まり
マイナス デフレ不況 狭義のデフレ,生産縮小

法人企業統計によれば,アベノミクス期には債務や設備投資の緩やかな増加がみられた。したがって,バブル崩壊やリーマンショックのように生産要素が逆流しているような状態(デフレスパイラル)ではなかったことがわかる。

失われた20年 アベノミクス
債務 削減 やや増加
設備投資 削減 やや増加
在庫 削減 削減ペース鈍化
投資資産 増加 急増

一方で,その需要は非常に弱く,政府が「デフレ脱却」を宣言できるような状況にはなかった(節倹経済)。

不況でもないし,物価の上昇も抑えられていて,むしろ節倹経済っていい状態なんじゃないの?

このように思うかもしれないが,現実にはそうならない。それどころか,日本において指摘されている,

  • 創造性や独創性のある商品やサービスが生まれない
  • 非正規雇用が低賃金でこき使われている
  • 高学歴ワーキングプアがたくさんいる
  • 労働生産性が低い

といった問題は節倹経済に起因しているといっていい。

第6章ではこの節倹経済の特徴について,

  • モノ:価格重視経済
  • ヒト:単純労働経済

の両面から分析する。

1.価格重視経済

デフレ経済では相対的に「価格」が重要な意味を持つ。そのため,企業は「品質」で勝負することを控えるようになり,コスト削減競争を激化させることになる[1]。以降では,その理論と現実について簡単に説明する。

① 価格重視経済の理論:貨幣選好

第4章で述べた通り,狭義のデフレとは,

  • 狭義のデフレ:一般物価水準の継続的下落

のことである。したがって,個別商品価格の上昇・下落はインフレ・デフレに該当しない[2]

一般物価の上昇とは,貨幣以外のすべての物の価値が上昇しているの状況に他ならない。すなわち,インフレとは貨幣価値の下落と同義であり,同じように,デフレとは貨幣価値の上昇と同義である。貨幣価値が変動していなければ,インフレやデフレにはならない。

貨幣以外の物の価値 貨幣価値
インフレ 上昇 下落
デフレ 下落 上昇

別ページで詳述するが,大半のデフレは需要不足によって引き起こされる。インフレ・デフレが需要の変動によって生じるならば,物価と貨幣価値の関係は,

  • インフレ:物・サービスの方が貨幣よりも選考される社会
  • デフレ:物・サービスよりも貨幣の方が選考される社会

と整理することができるだろう。

選好 社会 企業行動
インフレ経済 物・サービス>貨幣 消費社会 新規投資(品質重視)
デフレ経済 物・サービス<貨幣 節約社会 コスト削減(価格重視)

デフレ経済では貨幣の価値が高まるため,家計は品質よりも価格を重視する。家計が節約傾向を強めるのだから,企業は低価格戦略を採用することが合理的となり,コスト削減を重視するようになる。そのコストには人件費も含まれるのだから,デフレ経済で賃金が上昇しないのは当然のことといえる。

この特徴は節倹経済にも継承される。需要が減らずとも増えないという見通しならば,企業はコスト削減で利益を捻出しようと考えるようになる。一方,家計も賃金が増えないという見通しならば,節約によって生活を改善しようとするだろう。この循環によって,社会は「成長なき競争」へと突入する。

  • ゼロ成長経済論
    「成長」をゼロにしても「競争」はなくならない(第5章 - 4)

仮にインフレ率0%・経済成長率0%であっても,競争がなければ問題は生じない。しかし,企業は少しでも利益を得ようとするし,家計は少しでもお金を残しておこうとする。その結果,「成熟した脱成長社会」のイメージとはほど遠い価格重視経済が実現される。

② 価格重視経済の現実:デフレ産業

失われた20年において,企業努力は「より良いものを作ろう」ということよりも「より安いものを作ろう」という方向へとシフトしてきた。すなわち,

  • 品質勝負:新規の事業プロジェクト,新商品の開発
  • 価格勝負:店舗の統廃合,工場の閉鎖,賃金の引き下げ

であれば価格勝負が採用されてきたということである。

節倹経済において好まれる物とは高級品やブランド品などではなく,手ごろな値段の商品だ。たとえば,以下はその筆頭ともいえる100円ショップ件数の推移である。

100円ショップは失われた20年のなかで急速に成長した典型的なデフレ産業だ。100円ショップの存在が一般に認識され始めたのは1990年代の前半からである。1994年の記事では「急速に増え出した」としているが,それでも当時は全国に500店舗程度しかなかった(現在は約1万店舗)。

百円ショップ用商品の専門問屋「ニューワールド」(本社・神戸市)によると,百円ショップが急速に増え出したのは,バブル崩壊後のここ二,三年。チェーン展開する業者も増え,現在は全国で約五百店に上る。

―― 読売新聞(1994年5月24日)

これと同様の傾向は,そのほかの小売業の財務データからも読み取れる。

ユニクロ,すき家といった企業はバブル崩壊以降に急成長したが,いずれも低価格を強みとする。これらの企業がとる戦略は節倹経済という環境を考慮すれば非常に合理的である。

2.イノベーションの衰退

価格競争経済(成長なき競争)を逆の側面から見たのが「イノベーション欠如」である。節倹経済では品質より価格が重視されるのだから,当然の帰結として,イノベーションが停滞する

次に,「IT投資,デジタル化に出遅れ,生産性が上がらなかった」「ゾンビ企業が生き残り,イノベーションに後れをとった」「岩盤規制を打ち崩せなかった」という議論について見ていくことにしますが,これらも結論は「ひと言」で終わりです。

「経済が収縮するデフレ不況下で,そんなことができるはずがない」――それだけです。

―― 高橋洋一『戦後経済史は嘘ばかり』

しかし,この原因と結果を転倒させた議論は依然として多い。

柔軟な発想を評価できていないことが日本経済の停滞の理由。イノベーションの欠如がオリジナリティのあるクリエイティブな商品の誕生を阻んでいる。

家計が節約志向を強めている状況において,企業が付加価値を高める方向で勝負することは非合理的だ。この顕著な例としては,日産自動車の経営変化を挙げることができるだろう。

① 日産自動車の事例

日産は創業時より「技術の日産」と呼ばれ,業界にイノベーションをもたらす存在として注目されていた。

  • 1960年 デミング賞受賞
  • 1980年代 901運動(1990年までに技術で世界一を目指す)

しかし,バブル崩壊後,技術開発に傾斜していた日産は業界でもっとも深刻な打撃を受けることとなる

倒産寸前となった2000年,日産はルノー(フランスの自動車会社)との資本提携(買収)で救済されることになる。そのルノーから送り込まれたのが「コストカッター」の異名を持つゴーン社長(当時)だ。日産自動車は経営状況を急速に立て直していく(日産リバイバルプラン)が,それは技術開発からコスト削減へと重点をシフトさせた歴史でもあった。

日産の歴史
1933年12月 創業
1980年代 901運動
1999年3月 ルノーと資本提携(ルノー傘下)
2001年6月 カルロス・ゴーン氏社長就任
2001年10月 日産リバイバルプラン発表
2018年11月 ゴーン社長逮捕
2019年4月 ゴーン社長解任

日産の変遷はデフレ経済と企業戦略の関係を端的に表している。デフレ経済のなかで日産が経営危機に陥ったのは,

  • デフレ経済ではイノベーションが不利に働きやすいから

である。一方,日産リバイバルプランで経営状況が好転したのは,

  • デフレ経済ではコスト削減が有利に働きやすいから

である。実際,デフレ経済で優秀とされた経営者は,ゴーン元社長に限らず,コスト削減で名を馳せた人物ばかりだった。

日産の状況 経営スタンス デフレ経済での状況
バブル崩壊~2000年 業績悪化 「技術の日産」 イノベーションが不利に働いた
2000年以降 業績改善 日産リバイバルプラン コスト削減が有利に働いた

イノベーションの世界はせんみつ(1,000個やって成功するのは3個しかない)と言われており,計画的に狙って起こせるようなものではないため,コスト削減とは非常に相性が悪い。しかし,「低価格でそこそこの品質」を求める節倹経済とは,新たな技術が評価されにくい社会のことである。そのような市場環境であれば,

  • イノベーションや研究投資などの成功率の低いものに対する予算をカット
  • 余計な人員(特に研究者など給与の高い人員)を解雇
  • それで浮いた分を販売価格引き下げに転化する

という経営の方が合理的になるだろう。節倹経済とはイノベーションを叩き潰す社会といえる。

② イノベーションと需要

第3部でも述べるが,イノベーション欠如説を唱える者は,そもそもマクロ経済の構造を理解していない場合が多い。その典型が「イノベーションの欠如が需要不足を招いている」という主張である。

本当に独自性・創造性のあるものなら需要は創出される。日本がデフレなのはかつての「三種の神器」のように,みんなが欲しがるものがないからだ。

個別商品に対する需要はマクロ経済における需要不足とほとんど関係ない。たとえば,2000年代後半から普及し始めたスマホは,かつての三種の神器(洗濯機,冷蔵庫,白黒テレビ)のように「みんなが欲しがるもの」に該当する。しかし,この間,デフレ経済の問題は何ら解決しなかった。

個別商品の需要とデフレを結びつける主張は典型的なミクロ経済とマクロ経済の混同である。確かに,消費者が殺到する画期的な商品が開発されれば,「その商品に対する需要」は増加するだろう。実際,2000年代後にはスマホの需要が急増している。しかし,消費者がスマホを買うために節約したり,他の商品を買い控えたりすれば,経済全体の消費需要はプラスマイナスゼロで変化しない。

イノベーションによる新商品開発は個別企業というミクロの視点において需要拡大につながるだろう。しかし,国全体というマクロの視点においては,需要の移し替えにしかならず,総需要の増加につながらない。総需要が増加するのは,家計が節約をやめて消費を増やしたときである。

3.単純労働経済

節倹経済では高品質の商品が評価されにくく,イノベーションも生じにくい。そうした経済において必要とされる人材はコストカットに貢献する労働力,つまり,低賃金で働いてくれる労働者となる。

必要な能力 必要な人材
インフレ経済 新規投資(品質勝負)に有利な独自性・創造性 高機能労働者
デフレ経済 コスト削減(価格勝負)に有利な単純労働力 低賃金労働者

節倹経済では企業が人件費削減に心血を注ぐため,独自性・創造性のある人材よりも,低賃金労働者(非正規雇用,発展途上国の外国人労働者)の方が重宝される。

このことはデフレ産業の代表格であるファーストフード店をみればよくわかる。高機能人材は本部オフィスのごく少数だけで,現場の店舗を回しているのは大量のパート・アルバイトと,彼らを統率するための高度にマニュアル化された業務フローである。

こうした職場においては独自性や創造性は必要とされていどころか,発揮することすら許されない。失われた20年で非正規雇用が急増した理由のひとつとして,このような業態のビジネスが相対的に増加したことも挙げられるだろう。

① 教育問題説の検証

以上より,日本経済停滞の原因を労働者の能力の低さ(特に教育)に求めるのは誤りである。

教育に力を入れない国は滅びるしかない。独自性や創造性を伸ばす教育が欠如しているせいで日本経済はボロボロ。優れた人材の育成こそ最大の経済政策。

  • ※ そもそも,教育はビジネスのみを目的としたものではないのだが,ここでは仕事のための教育(職能)についてのみ考える。

節倹経済においては優れた知識・能力を持つ人材など,ほんの一部しか必要とされていない。実際,日本の大学進学率は上昇を続けているが,同時に,高学歴ワーキングプアの問題が深刻化している。

こうした「高学歴ワーキングプア」の背景に,国の政策ミスがあると指摘するのは,天野郁夫・東京大学名誉教授だ。

大学審議会は1991年,高度産業社会に対応できる人材養成の必要性などを背景に,2000年度までに大学院生数を当時の2倍,20万人に増やすよう提言。目標通り同年に20万人を突破,大学院数も,昨年は783校と91年当時より269校も増えた。

―― 読売新聞(2013年7月3日,東京朝刊)
高学歴ワーキングプア
難関大学を卒業し,修士号や博士号を保持していながら,思うような就職ができなかった人々。学歴難民とも呼ばれる。

すなわち,問題の本質は国民の知識・能力にあるのではなく,知識・能力を活かす環境がないことにある。このように,職能のための教育投資は節倹経済においてほとんど無駄になる

② 個人の能力と労働需要

なお,教育や職能についてもイノベーションと同様,ミクロ経済とマクロ経済を混同した主張が見受けられる。

本当に優秀な人材ならば企業が雇おうとしないなんてことはあり得ない。失業率が高いのは最近の若者が努力をしなくなっただけ。ただの自己責任。

確かに,就職面接の結果はその人の能力が多分に関係する。したがって,不採用となった学生に対し,

採用されなかったのは,君が他の学生と比べて優秀ではなかったからだ!もっと努力すべきだ!

というのは一定の正当性がある。しかし,学生が努力したからといって全体の失業率が下がることはあり得ない。なぜなら,仮にある学生が努力して内定を勝ち取ったとしたら,おそらく「その学生が内定しなければ採用されていたであろう学生」がひとり不採用になるだけだからだ。

企業の目的は事業投資(商品やサービスの提供)であって,人を雇うことはその手段でしかない。

  • 事業を拡大している企業 → 不足している人材を雇う
  • 店舗を削減している企業 → 採用を絞る

つまり,企業が内定を出す椅子の数は決まっている。個人が努力してどうにかできるのは,その限られた椅子を奪い合うことだけだ(成長なき競争)。椅子の数が変わらない以上,優秀な人材が増えたとしても,国全体の失業率は不変である。

就活に失敗した程度の事で自殺したらダメだ。起業でも何でもしてみよう。死ぬ気になれば何でも出来る。

上記のツイートは2012年5月の不況時[3]に炎上した松田公太元参議院議員のツイートを改変したものである。これを議員の立場で表明したということは,マクロ経済について何も理解していなかったということだろう。問題の本質は需要不足であり,起業の促進も(上記の就活の例と同様)その需要を奪い合うだけで何の解決策にもならない。

4.ブラック企業の興盛

節倹経済には,

  • 消費者が品質よりも価格を重視しやすい
  • イノベーションや技術進歩が起きにくい
  • 低賃金の単純労働者が選好されやすい

という特徴がある。そのような社会では,ブラック企業が蔓延し,労働生産性が低下することになる。

① 労働生産性の低下

まず,非常に勘違いの多い労働生産性の概念について簡単に説明する。

労働生産性
労働投入量あたりの産出量。労働者が1人(または1時間あたり)でどれだけの成果を生み出せるかを示したもの。

日本の労働生産性はアベノミクス以降もG7で最低となっている。

  • ※ 労働生産性には様々な計算の仕方があるが,どの方法を使っても日本が上位にくることはなく,大半は最下位になる。

なお,以下の主張のように,低い労働生産性の原因は日本企業の文化慣習に求められることが多い(文化説)。

無駄な会議,無駄な手続き,硬直的な企業経営。だから日本の労働生産性は先進国のなかで最低。昭和の価値観を捨てない限り,この国はよくならない。

労働市場改革についての議論もこうした認識の延長線上にあるものが散見される。

ここで考えなければならないのは,裁量労働制のあり方である。法案が撤回に追い込まれたのは杜撰(ずさん)なデータのせいだ。裁量労働制の必要性に変わりはない。先進国の中で最低水準が続く日本の労働生産性を引き上げるためにも,労働市場改革は避けて通れない。

―― 産経新聞(2018年3月11日,東京朝刊)

しかし,ここには2つの誤認があると考えられる。

A:効率化の影響

第1に,無駄な会議や手続きであっても,労働生産性低下の要因になるとは限らない。そこに賃金が支払われていれば,生産活動(対価に応じたサービス)として扱われるからだ。

たとえば,以下のようなケースを考える。

  • 10時間の労働で1万円の商品を生産

この場合,時間あたり1,000円の付加価値を生み出していることになる。ここで,無駄な会議や手続きをなくし,半分の時間で生産できるようになったとする。

  • 5時間の労働で1万円の商品を生産

こうなれば,確かに労働生産性は上昇する(時間あたり2,000円の付加価値)。しかし,会議の削減などで浮いた残業代や人件費が商品の値下げに転化されれば,労働生産性は上昇しない。

  • 5時間の労働で5,000円の商品を生産

以上のように,労働時間が半分になっても,商品価格が半分になれば,労働生産性は不変である(時間当たり1,000円の付加価値)。そして,これまで述べてきたよう,デフレ経済なら企業は削った人件費を値下げに使うのが合理的だ。したがって,労働生産性はデフレ経済で上昇しようがない。日本の労働生産性が低いのは,その文化や慣習にあるのではなく,日本だけが節倹経済にあるからと考えるのが自然である。

そもそも,ここ数年の日本の労働時間は主要先進国と比較して特別長いわけではない。

すなわち,問題の本質は生産量の少なさにある。ドイツ並みに労働時間が短くなったと仮定しても,日本の労働生産性はイタリアやカナダに並ぶ程度か,それ以下にしかならない。

B:設備投資の影響

第2に,機械設備インフラに関する議論があまりに欠落している。

たとえば,以下のような場合,労働生産性はA社が最も高く,D社が最も低いであろうことは容易に想像できる。

  • A社の経理部:経理専用ソフトで計算
  • B社の経理部:Excelで計算
  • C社の経理部:電卓で計算
  • D社の経理部:手計算

いくら慣習や働き方を変えたところで,優れた生産設備を持つ企業にかなうはずがない。実際,日本の資本装備率(1人あたりの生産設備)のは他の先進国と比べて上昇ペースが緩慢だ。したがって,労働生産性低下の理由はよりも機械の方にあると考えられる。

資本装備率
労働者あたりの機械設備の大きさ。生産設備ストック ÷ 労働者数。

ならば機械設備を増やして労働生産性を上げればいいじゃないか!IT化を進めればこの問題は解決するはずだ!

しかし,節倹経済においてそれは難しい。なぜならば,安い賃金で労働力を確保できてしまうからだ。

企業行動 投資選好
インフレ経済 賃金が高いため,機械化を進めて代替しようとする 機械>人
デフレ経済 賃金が低いため,人海戦術でビジネスを展開 機械<人

「機械より人を選好する企業」といえば聞こえはいい。しかし,その本質は大量採用・大量解雇で労働者を切り捨てるブラック企業である。

ブラック企業
長時間労働,極端なノルマ,パワハラなど劣悪な環境で労働者を働かせる企業

デフレ経済において企業が労働者を使い捨てにすることはきわめて合理的だ。低賃金でも変わらず労働してくれるのであれば,企業が賃金を引き上げる理由などどこにもない。その結果,機械設備への需要は減少し,もっぱらマンパワーに依存した経営が増加することになる。第1部でも説明した通り,ブラック企業の問題は本質的にマクロ経済の問題である。

② 共生する機械と人間

第3部でも述べるが,機械設備インフラに関する議論が欠落していることは,日本経済全体にかかわる重大な問題といっていい。

特に致命的なのは,

機械・インフラ設備と人間が対立関係にある

という認識だ。このことは,2009年の衆院選で民主党が「コンクリートから人へ」を掲げて政権交代を成し遂げたことからもうかがえる。しかし,労働生産性という点に関していえば,コンクリートにできることはコンクリートにやらせた方がいいに決まっている。

別ページで詳述するが,

機械・インフラ設備と人間が補完関係にある

という認識を持つことはきわめて重要といえる。この認識があれば,デフレ経済の続いた日本では「人」よりも「コンクリート」の方に問題が山積していると理解できるはずだ[4]

たとえば,介護施設におけるパワードスーツやロボットなどの導入に関しては海外の事例が持ち出される場合が多い。

高福祉国家であるデンマークやスウェーデンでは,医療・介護にかかわるサービスは,主に地方自治体を中心とした公的セクターにより実施されており,原則無料で国民に提供されている。しかしながら,高齢化に伴う介護従事者の労働力不足や財政負担の増加が懸念される中,高福祉制度を維持することが喫緊の課題となっており,介護ロボットの導入により,労働生産性向上とコスト削減を進めるとともに,介護従事者の負担を軽減し,テクノロジーを活用したより良いサービスを提供することを目指している。

―― 政策投資銀行『わが国介護ロボット産業の発展に向けた課題と展望』

しかし,日本の場合,そうした議論と逆行するように,福祉分野における一人当たりの機械設備は削減され続けている。

これは日本でパワードスーツの開発が遅れているということを意味しているわけではない。それどころか,パワードスーツに対する特許数も論文数も日本は世界トップクラスであり,介護の分野に限れば圧倒的な強みを持つ。

それでは,なぜ日本においてパワードスーツの導入が遅れているのだろうか。理由はパワードスーツなどの機械を購入するよりも,新たな介護士やヘルパーを雇う方が安上がりだからだ。この場合,労働生産性は低下する。

  • ※ これは前述の高学歴ワーキングプアの問題とまったく同じ構造といえる。

逆に海外の介護福祉施設でパワードスーツが導入されるのは,政策投資銀行のレポートが指摘しているよう,そっちの方がコスト削減になるからだ。機械設備を拡張する理由は,海外の施設が介護士に優しいからというわけではない。単に介護士の賃金が高いからである。

  • インフレ経済のコスト削減:機械の増強(労働生産性上昇)
  • デフレ経済のコスト削減:労働力の増強(労働生産性低下)

人と機械の議論いえば「AIが仕事を奪う」ということが話題になっている。しかし,節倹経済の日本においてそれは緩慢にしか進まないだろう。AIを導入するよりも,非正規雇用労働者を使い捨てにした方がはるかに安上がりからだ。そうした環境ではイノベーションが進むこともなければ,高度な技能が活かされることもない。これこそが,アベノミクスまで含めた「バブル崩壊後30年」の日本社会の姿であった。


ここまでの説明で,節倹経済がどれだけ問題のある状態か理解できただろう。

やれ経済成長だインフレだと,未だにバブルの幻影追っている人たちには退出してもらって,皆が社会参加をする国を作るべき。それが日本のあるべき姿。

先進国になれば需要は減少する。成熟経済で必要なことは成長でもデフレ脱却でもなく,身の丈に合わせた慎ましくも平和な暮らしの追求ではないのかな。

イノベーションを潰し,能力の発揮できる環境を狭め,ブラック企業を蔓延させる。これこそが「身の丈に合わせた慎ましくも平和な暮らし」の真の姿なのである。

  • ^1デフレ経済において品質よりも価格が重視されることは限界代替率逓減などによって説明することができる(第1部8章)。
  • ^2価格高騰や急速な平均数値の上昇を比喩的に「インフレ」という場合がある(「マスクのインフレ」「タピオカ店のインフレ」「(漫画などの)技のインフレ」など)。しかし,この用法は経済学的には誤りである。
  • ^32012年4月~11月は不況期(外需不況)に該当する(第15循環)。各国が金融を緩和するなかで日本だけが何もしなかった結果,急速な円高が進行し,大手家電3社が過去最大の赤字を計上した。若田部昌澄日銀副総裁は「民主党不況」と呼んでいる。
  • ^4インフラと公共事業の問題は第3部で説明する。