Theme 2:新自由主義の政治経済
第6章 世界スタグフレーション
第6~7章では新自由主義経済学がどのように展開していったのかを概観する。新自由主義経済学は1970~80年代の世界スタグフレーションで主流学派となり,2000年代のリーマンショックでその座から引きずりおろされた。
- 世界スタグフレーション
- オイルショックによって先進国で発生したインフレ不況。
一般に,新自由主義経済学が伸長した理由は,
ケインズ経済学がオイルショックにうまく対応できなかったから
とされることが多い。ただし,この認識には誤解も多い。第6章では,オイルショックと学派の関係について説明し,それが政治・社会にどのような影響を与えたのか確認する。
1.スタグフレーションと経済政策
新自由主義が主流となった1970~80年代は世界でスタグフレーションが問題となった時期であった(世界スタグフレーション)。その原因は原油価格の高騰にある(オイルショック)。生産コストの上昇を通じて供給能力が急激に低下したため,インフレと不況の両方が問題となった。
もっとも,スタグフレーションに対するは誤解は多い。
アベノミクスは金融緩和でインフレにする政策。そんなことしても物価が上がるだけで,景気は一向に良くならない。スタグフレーションになるだけ。
こうした主張は安倍政権成立前後に散見されたが,経済政策によってスタグフレーションになることは基本的にない。そこで,まずはスタグフレーションの構造について簡単に説明する。
スタグフレーションとは供給ショックによって生じるインフレのことである。
需要の拡張(需要曲線の右シフト)によって生じるインフレと異なり,スタグフレーションは供給の減少(供給曲線の左シフト)によって生じる。そのため,インフレ(価格調整)と同時に不況(数量調整)が引き起こされることになる。
前章でも述べたが,経済政策などによって短期的に供給曲線をシフトさせることは不可能といっていい。そのため,一般的に,スタグフレーションは戦争や災害などの外的ショックでしか生じない。
スタグフレーション | 原因 | |
---|---|---|
1920年代前半 | ドイツハイパーインフレ | ルール占領 |
1970年代前半 | 第1次オイルショック | 第4次中東戦争 |
1970年代後半 | 第2次オイルショック | イラン革命 |
スタグフレーションは,その構造上,頻繁に起こるものではない。上のツイート例はスタグフレーションの仕組みを理解していない典型例といえるだろう。
アベノミクスを批判する人の中には,「アベノミクスでスタグフレーションが起こるかもしれない」といった人がいましたが,「天変地異が起こるかもしれない」といっているのと一緒で,政策論レベルの話ではありません。今後,天変地異や石油ショックなどが起こればスタグフレーションが起こることはありえますが,アベノミクスとは関係のないことです。
―― 高橋洋一『戦後経済史は嘘ばかり』
① 経済政策枠組みの転換
スタグフレーションが供給ショック(供給曲線のシフト)で生じるのに対し,ケインズ経済学(新古典派総合)に基づく政策は需要管理(需要曲線のシフト)であった。それゆえスタグフレーションを財政・金融政策で解決しようとした場合,景気回復とインフレ抑制でトレードオフに衝突する。
問題 | 対策 | 結果 |
---|---|---|
不況 | 財政拡張・金融緩和 | 景気回復・物価上昇 |
インフレ | 財政緊縮・金融引締め | インフレ抑制・景気冷え込み |
世界恐慌のようなデフレ不況であれば,ケインズ政策はデフレと不況の両方を解決する。しかし,インフレ不況の場合,不況を解決しようとして拡張策をとればインフレは加速するし,インフレを抑えようとして緊縮策をとれば景気は悪化する。それゆえ,景気悪化かインフレ加速,どちらかを選ばなくてはならなくなる。
景気回復とインフレ抑制どっちが大事だって?そんなの景気回復に決まってるだろ!物価なんぞ二の次だ!
多くの人はこのように考えるだろう。しかし,当時の財政拡張はインフレを加速させるばかりで,目立った景気回復効果はほとんどみられなかった。
この現象を説明したのが,M.フリードマンの通貨主義経済学(マネタリズム,新自由主義経済学の学派のひとつ)である。フリードマンは期待インフレという概念を導入し,
人々がインフレを予想する場合,財政政策はほとんど価格調整として反映される
という結論を導き出した。その仕組みは第4章で説明したとおりである。
- 通貨主義経済学の理論
- 期待インフレの仕組み(第4章 - 2)
これ以降,経済学の主流はケインズ経済学から新自由主義経済学へと切り替わっていった。
② 新自由主義経済学への誤解
もっとも,こうした主流学派の変遷についてはいくつかの誤解がある。第1の誤解は,スタグフレーションが新自由主義経済学によって解決されたというものである。
世界恐慌のようなデフレ不況ではケインズ経済学で解決されたが,オイルショックのようなインフレ不況を解決したのは新自由主義経済学だった。
確かに,フリードマンは期待インフレの概念によって,世界スタグフレーションで経済政策が思うように機能しなかった理由を「説明した」。しかし,それはスタグフレーションを「解決した」わけではない。
むしろ新自由主義経済学は,効果的な不況解決手段がないため,消去法的に
- 弊害の方が大きい財政拡張をやめるべき
- インフレ抑制に舵を切るべき
と訴えたのである(ケインズ政策の無効性)。
この問題はアメリカの金融政策とその結果からも読み取れる。第2次オイルショック直後の1979年8月,景気回復とインフレ抑制の間で板挟みになっていたFRB(米連邦制度準備理事会,アメリカの中央銀行)はボルカー議長のもと,明確にインフレ抑制へと舵を切った。これは通貨主義経済学の
- 貨幣供給増加率を一定に保つ(k%ルール)
という考え方をほぼそのまま実践したものである。これによってインフレの抑制には成功たが,株価は暴落し,失業率も大幅に上昇する結果となった(ボルカーショック)。
失業率を悪化させたボルカー議長の決定には賛否両論存在するが,重要なことは,
スタグフレーションの原因は外的ショックにある
ということである。当たり前の話だが,戦争や災害などによる混乱を経済政策で容易に解決できるはずがない。結局,両学派とも景気回復を実現できなかったことになるが,それはある意味で当然の帰結といえるだろう。
③ ケインズ経済学への誤解
第2の誤解は,ケインズ経済学に対するものである。
安倍政権の公共事業拡張なんかそうだけど,最近になって経済学者がケインズ政策を復活させようと企んでいる。だけど,ケインズ経済学はオイルショックによって既にその無効性が証明された。経済学者はもっと歴史を学ぶべき。
確かに,ケインズ経済学はスタグフレーションにうまく対応できなかったかもしれない(1980年代には「ケインズは死んだ」[1]と言われるようになった)。しかし,当然のことながら,それはデフレ不況における財政政策・金融政策の無効性を証明するものではない。上記のツイートは問題の原因が異なることを理解していないため,有効な解決策を棄却してしまっている例といえる。
また,学術的説明という点でいえば,ケインズも,
インフレ期の需要拡張は景気回復よりも物価上昇として表れやすい
ということを説明している。
有効需要量がさらに増加しても産出量はもはや増加せず,その全体が雄幸樹生の増加と完全に比例して費用単位を増加させるために費やされるとき,われわれは真正インフレーションと呼ぶのがふさわしい状態に到達したことになる。
―― J.M.ケインズ『雇用,利子および貨幣の一般理論』
もっとも,ケインズの説明は供給制約に基づくもので,通貨主義経済学の説明(期待インフレ)とは根本的に異なる。
- 通貨主義経済学:人々がインフレを予想するから,増産よりも値上げで対処される
- ケインズの理論:増産能力に限界があるから,増産よりも値上げで対処される
インフレ期における結論だけみれば,双方とも同じといえる。しかし,この理論をひっくり返した場合,デフレ期における結論は正反対になる。
- 通貨主義経済学:人々がデフレを予想するから,減産よりも値下げで対処される
- ケインズの理論:減産に供給能力は関係ないので,値下げよりも減産で対処される
なお,こうした非対称性は基礎的なケインズ経済学においてあまり考慮されていない。これまでケインズ経済学の特徴を数量調整(価格硬直性)と表現してきたが,ケインズの理論についていうならば価格の下方硬直性という言い方が適切だろう。
学派 | インフレ期の傾向 | デフレ期の傾向 | 理由 |
---|---|---|---|
通貨主義経済学 | 価格調整 | 価格調整 | 期待インフレ |
ケインズの理論 | 価格調整 | 数量調整 | 供給制約 |
基礎的なケインズ経済学 | 数量調整 | 数量調整 | 短期経済 |
それゆえ臨界水準――この水準を超えると真性インフレーションが開始される――を挟む両側ではある種の非対称性があるように思われる。というのは,有効需要が臨界水準以下に収縮した場合,費用単位で測ったその額は減少するのに,有効需要がこの水準を超えて拡大した場合には,費用単位で測ったその額を増加させる効果は一般には存在しないからである。
―― J.M.ケインズ『雇用,利子および貨幣の一般理論』
2.新自由主義の時代
新自由主義経済学は1970年代前半から学術界で台頭し始めたが[2],政治的影響力を持ったのは第2次オイルショック(1979年)以降である。なお,日本で単に「オイルショック」といえば,スーパーからトイレットペーパーが消えた第1次オイルショックが想起されやすい。
これに対し,第2次オイルショックについては,
第1次オイルショックの反省から省エネ化などが進んだため,影響は軽微なものに抑えられた
と説明されることが多い。しかし,それは日本に限った話であって,国際的には第2次オイルショックも甚大な経済被害をもたらした。
当サイトが「世界スタグフレーション」という表現を使う理由もここにある。石油価格の高騰は世界の政治・経済に大きな影響を与えたが,日本で「オイルショック」といった場合,生活の歴史におけるひとつの事件程度にしか認識されないことがある。以降では,オイルショック(世界スタグフレーション)によって政治体制と社会思想がどのように変化していったのかを確認する。
① イラン革命
第2次オイルショックはイラン革命によって生じたが,このことは経済面のみならず,政治・外交面にも大きな影響を与えている。そのうち最大の事件はソ連のアフガニスタン侵攻である。
- アフガニスタン侵攻
- ソ連(ブレジネフ政権)がアフガニスタンの親ソ政権を支援する目的で行った軍事侵攻。イスラム系反政府ゲリラの組織的な抵抗で泥沼化した。
イランの隣国であるアフガニスタンは当時ソ連の影響下にあったが,依然としてイスラム勢力による反乱が頻発していた。イラン革命の指導者であったホメイニ師が革命の輸出を宣言すると,その波及を恐れたソ連はアフガニスタンへの軍事介入を決定した。これにより,米ソ冷戦は再燃する(デタント終結)。
1979年の前半までには,隣国のパキスタンとイランで組織されたイスラーム主義者たちの反乱が勢いを増しつつあった。アフガニスタンのイスラーム主義者たちは(シーア派のことを分派と見なしていたが),イランで生じたようなイスラーム革命の実現を信じていた。
―― O.A.ウェスタッド『冷戦(下)』
第2次オイルショックとアフガニスタン侵攻により,反ケインズ経済学と反ソ連の機運は同時に高まっていった。
そして,両者を糾合する形で,先進国では次々と新自由主義政権が成立した。
1979年2月 | イラン革命 |
1979年5月 | サッチャー政権成立(イギリス) |
1979年12月 | アフガニスタン侵攻 |
1980年7月 | モスクワ五輪(西側諸国のボイコット) |
1981年1月 | レーガン政権成立(アメリカ) |
1982年10月 | コール政権成立(西ドイツ) |
1982年11月 | 中曽根政権成立(日本) |
1983年3月 | レーガン大統領「悪の帝国」発言 |
サッチャー首相,レーガン大統領,コール首相,中曽根首相などはいずれも
- 対外強硬派(右派政権,親米反共)
- 市場重視(公的セクターの民営化)
として知られている。前章で述べた通り,新自由主義経済学はこの時期に主流派を占めるようになっていったが,その理由のひとつには新自由主義経済学が現実の政策として採用されるようになったことが挙げられる。
各国経済の新自由主義的な「健全化」政策(ディスインフレーション,社会保障の切り捨て,購買力の制限ないし切り下げ)は,ロナルド・レーガン米大統領の第一期の初めに開始され,他の西ヨーロッパ諸国,とりわけマーガレット・サッチャー首相のイギリスおよび統一前の西ドイツで手がけられ,世界経済に対して著しい影響を与えた。
―― M.ボー『資本主義の世界史』
後述するよう,上記の政権は必ずしも新自由主義経済学に忠実な政策を行ったわけではない。ただし,大きな流れとして,この時期に新自由主義の時代が始まったといえるだろう。
② 個人重視の秩序
1980年代の政治・経済・学術の転換によって,社会思想にも大きく変化がみられるようになった。それは社会の認識が
個人重視(個人の自由と社会的公正が調和するという思想)
へと切り替わっていったことである(これは前章で述べた新しい古典派経済学や実体景気循環論などの発展と整合的といえる)。
一方,新自由主義へのシフトを「右派勢力の台頭」とみる向きもあるが,その見方はやや表面的と言わざるを得ない。
1980年代は共産主義に対して否定的なレーガンやサッチャーが活躍した。つまり,世界はこの時期に大きく右傾化し,新自由主義の時代となった。
たとえば,M.リラ教授(コロンビア大学)やD.ハーヴェイ教授(ケンブリッジ大学)も,1980年代以降を「新自由主義の時代」または「レーガンの時代」と表現しているが,その理由は必ずしも右派政権が成立したからではない。彼らは左派におても制度重視から個人重視へのシフトがみられたことを指摘している。
- ※ 両者は新自由主義に批判的な左派論客とし知られている。
反ソ連・反ケインズ経済学の機運が高まると,国家介入を肯定するような主張は左派のなかでも下火になっていった(この傾向はソ連崩壊で決定的となる)。代わって台頭したのがアイデンティティポリティクスである。左派の軸足が格差是正から差別反対へと傾斜したのはこの時期といえるだろう[3]。
- ※ 個人重視というのは「社会よりも個人を重視する」という意味ではなく,個人の自由を尊重しても社会は十分回るという考え方である。一方,制度重視は個人と社会の衝突は十分にあり得るという考え方である。上記の図についてはPart 3で詳述する。
既に述べたよう,新自由主義の時代における重要な変化は
制度重視から個人重視へのシフト
にある。詳しくはPart 3で説明するが,ハーヴェイ教授が指摘するよう,アイデンティティポリティクスと新自由主義には一定の親和性が認められる。
個人的自由を神聖視する政治運動はいずれも,新自由主義の囲いに取り込まれやすい。(中略)
しかしながら,個人の自由という価値観(注:個人重視)と社会的公正という価値観(注:制度重視)とは,必ずしも両立しない。社会的公正の追求は社会的連帯を前提とする。そしてそれは,何らかのより全般的な闘争,たとえば社会的平等や環境的公正を求める闘争のためには,個人の欲求やニーズや願望を二の次にする覚悟を前提とする。
―― D.ハーヴェイ『新自由主義』
実際,1990年代に成立した左派政権は「第3の道」に代表されるよう,個人の自由や多様性といった概念を全面に掲げていた。
1984年7月 | ミッテラン政権の政策転換(フランス) |
1993年1月 | クリントン政権成立(アメリカ) |
1994年5月 | ブレア政権成立(イギリス) |
1998年10月 | シュレーダー政権成立(ドイツ) |
「第3の道」を提唱したブレア政権は,「結果の平等」ではなく「機械の平等」を強調した。この考えのもと,福祉の削減は正当化され,教育の拡充などが重視された。なお,「機械の平等」や教育の拡充は新自由主義(右派)においても何ら否定されるものではない。
そこで80年代から,そうした国の多くで,上方への所得再分配(注:富裕層優遇政策)を支持する人々が,ほとんどの期間,政権の座につくことになった。トニー・ブレア率いる労働党など左翼政党や,ビル・クリントン率いる民主党さえ,そうした戦略を公然と支持した。そしてこのクライマックスは,ビル・クリントンが1996年に福祉改革を実施し,「これまでの福祉に終止符を打ちたい」と宣言したときだろう。
―― H.チャン『世界経済を破綻させる23の嘘』
このように,1980年代以降は「右派の時代」ではなく「個人重視の時代」であった。したがって,前述の両教授が展開した新自由主義批判の矛先は右派のみならず,左派にも向いている。
アイデンティティ・リベラリズムは左派にとって未来の希望ではなかった。新自由主義に対抗する力とはなり得なかったのだ。アイデンティティ・リベラリズムは,実は左派のレーガン主義だったのである。
―― M.リラ『リベラル再生宣言』
第1部 Part 1で述べたよう,この傾向は日本にもみられる。もっとも,リーマンショック以降,世界ではこれを是正する動きがみられている。
- 多様性問題のイントロダクション
- 多様性重視から格差是正への動き(第1部 Part1 第7章 - 4)
③ 矛盾を抱えた新自由主義政策
これまで述べたよう,1980年代以降は新自由主義の時代となった。しかし,この歴史観に対しては異論も多い。
レーガン政権が新自由主義だなんていうのはデタラメ。新自由主義は小さな政府を目指すが,レーガノミクスではむしろ政府支出が増加している。
中曽根首相は新自由主義といわれることもあるが,実際は逆で,内需の拡張を国際公約として発表している。結局それがバブルの引き金になった。
確かに,各国政府が新自由主義経済学に基づいた政策を採用したならば,
- レーガノミクスで財政支出が急増し,内需が拡大したこと
- 日本政府が内需拡大方針を国際公約として訴えたこと(前川レポート)
- 各国政府が為替の協調介入を行ったこと(プラザ合意)
といった動きは,それと矛盾しているように思われる。
しかし,結論からいえば,これらは新自由主義の時代だったからこそ実行された。逆説的ではあるが,上記の動きによって,世界経済はより新自由主義の方向へ一層傾斜することになる。第7章ではこれらがどう新自由主義と結びつくのかについて説明する。