Theme 2:新自由主義の政治経済
第7章 新自由主義体制の拡散
現代グローバリゼーションとは,1980年代から始まり,2000年代にピークを迎えたグローバル化のことである[1]。これが「新自由主義の時代」と一致しているのは偶然ではない。両者は規制に批判的という点で親和的であり,これから説明するよう,戦後のグローバル化は新自由主義経済学が他国に輸出されることによって進行した。
第6章で述べた通り,1980年代は「新自由主義の時代」である。それにもかかわらず,政府による財政拡張や市場介入が多くみられた。
- ①レーガノミクスで財政支出が急増し,内需が拡大したこと
- ②日本政府が内需拡大方針を国際公約として訴えたこと(前川レポート)
- ③各国政府が為替の協調介入を行ったこと(プラザ合意)
上記はいずれも新自由主義経済学の考え方に沿っているとは言い難い。しかし,逆説的ではあるが,これらは新自由主義に基づく世界秩序を形成するための土台となっていった。まずは,上記の3つの事実について,順番に確認する。
1.現実のレーガノミクス
まず,
- ①レーガノミクスで財政支出が急増し,内需が拡大したこと
について説明する。レーガノミクスが新自由主義経済学(反ケインズ経済学)に基づいた政策であるという見解には否定的な意見も多い。
レーガン政権は「小さな政府」を標榜して,歳出削減を目指していましたので反ケインズ的な政策と見られがちですが,実際には典型的なケインズ政策でした。
―― 高橋洋一『戦後経済史は嘘ばかり』
実際,レーガン政権で財政赤字は大幅に拡大しており,新自由主義経済学が志向する「小さな政府」とは言い難い。
ただし,これは当初から計画されていたものではく,「結果として」歳出が増えたものである。実際,レーガン大統領は経済再生計画のなかで歳出削減を訴えている。
この計画(注:経済再生計画)は次の4部から構成されています。
(1)政府支出増の大幅な削減
(2)税率の大幅な引き下げ
(3)規制の着実な緩和
(4)上記政策と整合的な金融政策
全体の総合計画はこれらの4つの個別的政策から成っています。
―― 連邦議会上下両院合同会議での大統領演説(1981年2月18日)
- ※ 当時は上記の経済政策パッケージがレーガノミクスと考えられていた。
しかし,新自由主義政権のコンセプトである
- 反ソ連:軍事費拡張
- 反ケインズ経済学:歳出削減
のうち反ソ連の色彩が強く出た結果,歳出は意図せずして増加した。
財政政策 | 金融政策 | |
---|---|---|
当初想定 | 政府支出削減 | 引締め(利上げ) |
現実 | 政府支出拡大 | 引締め(利上げ) |
① 軍事費と新自由主義経済学
ここで重要な点は,レーガン政権の財政拡張を「新自由主義に反していない」と強弁できてしまうことである。この解釈はかなり強引なものに感じられるかもしれないが,その論理構造について簡単に説明する。
■ 論理構造
新自由主義経済学は「小さな政府」を志向するが,「無政府」を志向しているわけではない。特に国防は多くの経済学者が最低限の国家の役割(非市場的な財)と考えている。実際,国防・治安以外のすべてを民営化した国ならば,誰もが「小さな政府」というだろう(夜警国家)
では,その政府が国防上の必要性によって軍事費を増大させた場合はどうなるだろうか。上記の枠組みに従うならば「最低限の国家の役割」で費用が増加しているだけなのだから,「小さな政府」といえなくはない。
しかし,Part 1で述べた通りケインズ経済学において財政支出の中身は問われない。軍事費増大であっても財政拡張による乗数効果が生じるため[2],結果として,福祉拡張的な「大きな政府」とほとんど同じになる。
以上より,レーガン政権の軍事費増大は,
- 新自由主義に反していない(枠組みは小さな政府)
- 新自由主義に反している(結果として大きな政府)
と,両方の解釈をとることができる。
■ 構造的矛盾
レーガン政権の事例は
新自由主義的な思想をもった政権でも,国防上の理由で財政が拡張することはある
ということを示している。
財政赤字が膨らんでいるのに新自由主義?なんかこじつけっぽいなあ。
おそらく,ほとんどの人は納得がいかないだろう。しかし,第8章で述べる通り,これは「こじつけ」ではなく,新自由主義的な政策が内包する構造的な矛盾であり,短期-長期の誤謬と密接に関連している。
なお,この解釈論争はリーマンショックによって再び再燃する。もっとも,そこで問題視されたのは軍事費増大ではなく金融機関の救済であった。すなわち,
政府による金融機関の救済は新自由主義に反しているか
という議論である。このことについては第11章で説明する。
② 双子の赤字
基礎的な経済学の枠組みに基づけば,レーガノミクスによる財政拡張と金融引締め(ボルカーショック)の組合せはドル高をもたらすことになる。
経済政策 | 内需 | 物価 | 金利 | 通貨 |
---|---|---|---|---|
財政拡張 | 拡大 | 上昇 | 上昇 | 通貨高 |
財政緊縮 | 縮小 | 下落 | 低下 | 通貨安 |
金融緩和 | 拡大 | 上昇 | 低下 | 通貨安 |
金融引締め | 縮小 | 下落 | 上昇 | 通貨高 |
- ※ 上記の変化は,数量調整が強いなら内需に,価格調整が強いなら物価に色濃く表れる。この点は学派によって異なるが,財政拡張と金融引締めであれば,通貨高に振れるとする考え方が一般的である。
これに対し,当時の日本は第2次オイルショックからいち早く抜け出し,インフレ対策のために金融引締めを行うような状況にはなかった。1980年8月には既に金融緩和へと舵を切っている。
一方,不況対策で生じた財政赤字を削減するため,第2次臨時行政調査会(1981年3月,土光臨調)で「1984年までに赤字国債ゼロ」が掲げられ,財政は緊縮気味で推移した。すなわち,1980年代前半は
- アメリカ:財政拡張+金融引締め
- 日本:財政緊縮+金融緩和
と,日米で政策の方向感が真逆だった。この状況で円安ドル高に傾かない方が異常だろう。
したがって,1980年代のドル高はレーガノミクスによってもたらされたという見解が一般的である。少なくとも,当時の日本政府はそのように認識していた。
そうしたなかでレーガノミックスがスタートし,財政赤字拡大による有効需要増加が景気拡大とその所得効果による輸入増加を引き起こす一方,中立的ないしやや抑制的な金融政策の下で国内貯蓄・投資バランスが83,84年とひっ迫したことから,実質金利高・ドル高を継続させた。実質金利高・ドル高の継続は,価格競争力の面からも貿易収支赤字を拡大する方向に作用し,経常収支赤字拡大とその裏側の資本収支黒字拡大をもたらした。
―― 1987年度 年次世界経済白書
経済企画庁が指摘する通り,ドル高は輸入増加と輸出減少をもたらし,経常赤字を拡大させることとなった。これが「双子の赤字」の構造である。
- 双子の赤字
- アメリカの財政赤字・経常赤字の問題を表す言葉。この状況はレーガン政権から定着した。
2.日米貿易摩擦
次に
- ②日本政府が内需拡大方針を国際公約として訴えたこと(前川レポート)
について説明する。この問題の背景には日米貿易摩擦がある。
前述の通り,アメリカの経常赤字は増大し,次第にそのことが問題視されるようになる。しかし,当初アメリカ政府はその原因がドル高(ひいてはそれをもたらしている自国の経済政策)にあるとは解釈しなかった。実際,1985年の大統領経済報告では,
- ドル高と財政赤字の関係は明確ではない
- ドル高は生産や投資を刺激した点で有益だった
とされている。また,同報告では日本市場へのアクセスを大統領・首相間のハイレベル協議において拡大する方針だとも述べられている[3]。
日本市場へのアクセス拡大って何の話?それって経常赤字となんか関係あるの?
当時のアメリカ社会において,経常赤字の原因はドル高ではなく,
- 日本の閉鎖的な市場システム
にあるという考え方が主流となっていた。つまり,
日本は「開かれたアメリカ市場」へ自由にアクセスしている。一方,アメリカは「閉ざされた日本市場」へのアクセスが政策的に制限されている!日本はずるして経常黒字をため込んでいるってことじゃないか!
という見解だ。今となっては理解に苦しむ発想だが,少なくとも,当時のアメリカ議会はこのように考えていた。すなわち,アメリカは「フェアトレード」を掲げ,自由主義の文脈で日本に内需拡大や規制緩和を要求したのである。
派手なファンファーレはなかったが,上院財政委員会国際貿易小委員会のジョン・ダンフォース委員長は,拘束力のない共同決議文を起草し,「不公正,不合理,差別的で,アメリカの通商を困難にし制限する」貿易慣行を維持しているかどで,日本に事実上不公正貿易国の烙印を捺した。そして,事態を改善するために「適切で実行可能なあらゆる措置」をとるように命じた。
―― S.D.コーエン『アメリカの国際経済政策』
① 対日感情の悪化
日本政府はアメリカの内需拡大・規制緩和要求を受け入れたが,その理由には以下の2つが挙げられる。
- 冷戦再燃:大韓航空機撃墜事件などで日米連携の重要性が増した
- 対日感情悪化:アメリカ議会で対日報復決議が採択された
冷戦再燃については別ページで説明することとし,ここでは対日感情悪化について取り上げる。
アメリカ市場に日本製品の流入が加速すると,対日感情は著しく悪化した。1982年6月には中国系アメリカ人が日本人と間違えられて殺害される事件まで起こっている(ビンセント・チン殺害事件)。
日本は譲歩を続けたものの,ソ連崩壊後の対日感情は対ロシア感情よりも悪化する結果となった。
ここで注意すべき点は,産業界や議会が主張していたのはもっぱら保護主義(反新自由主義)であり[4],必ずしも日本に市場開放を求めていたわけではなかったということである。この動きに対し,レーガン大統領は議会の保護主義を抑え[5],日本に市場開放を迫ることで新自由主義の秩序を維持しようとした。
米国人たちは自らの罠に掛かっていた。それでもなお彼らは日本人たちを非難した。ロバート・ドール上院議員(共和党カンザス州選出)は米国の商品に対して市場を開放しない日本を「利己的で近視眼的である」と糾弾した。ジョン・ダンフォース上院議員(共和党ミズーリ州選出)は日本を「蛭」と呼んだ。保護主義の主張と怒りとが大きくなるにつれ,レーガン政権は秘密のNSC論文において「この深刻な問題」は中曽根を説得して市場を開放させることによって解決できる,という期待を表明した。
―― W.ラフィーバー『日米の衝突』
② 前川レポート
一方,日本の政府や産業界も
アメリカで保護主義が高まってしまうくらいなら,輸出自主規制や内需拡大によって調整した方が得策だろう
と考えるようになり,アメリカの要請を受諾する方向で,内需拡大が国際公約として掲げられた。それが1986年4月にまとめられた前川レポートである。以下はその内容だ[6]。
- ①内需拡大
- ②産業構造の転換
- ③市場アクセス改善・輸入促進など
- ④通貨安定と金融の自由化・国際化
- ⑤世界経済への貢献
- ⑥財政・金融政策の進め方
なお,この時点での改革受諾は抵抗コストの大きさからくる消極的受容が大半であった。一方,日本の閉鎖性に問題があると考える積極的受容(日本を開国すべきだといった主張)が増加するのはバブル崩壊以降のことである。
③ 貿易における市場統合
以上より,貿易摩擦(とそれに伴う日本の内需拡大)にも「新自由主義に反していない」という強弁をみることができる。実際,アメリカ政府が主張したのは公正な貿易であって,彼らにとって日本の施策は「不公正の是正」でしかない。
いやいや,これのどこが公正なの?アメリカのわがままじゃん。
このように思ったかもしれないが,大前提として「何が公正か」ということは人によって異なっている(これは第4部のテーマでもある)。したがって,両国の定義する「公正な貿易」が違う状態で貿易を維持しようとした場合,どちらかが相手の「公正」に合わせなければならない。すなわち,貿易摩擦の事例は
市場統合には制度統合が付随する
ということを端的に示している(この問題は第8章で詳しく説明する)。
■ 日本の制度統合
1980年代は,日本がアメリカの「公正」に合わせる形で貿易が維持された。確かに,日本には農業保護のための輸入制限(輸入割当制)などがあり,
アメリカに工業製品などの関税を引き上げてほしくなければ,日本も農業製品の輸入制限を撤廃すべきだ
とする主張には一定の正当性がある。こうした流れのなか,日本は1988年に牛肉・オレンジの自由化を認めることになった。
- ※ もっとも,安全保障にかかわる食糧調達を海外に依存することが公正なのかは相当に議論の余地がある。また,アメリカやヨーロッパは(安全保障上の理由もあって)農業に多額の補助金を拠出しており,輸入制限だけを指摘して「不公正」と論じるのは一面的といえる。
一方,アメリカの指摘する不公正にはメインバンク制(系列銀行)なども含まれていた[7]。しかし,金融システムは経済構造の根幹にかかわる部分であり,容易に変更することはできない。そもそも,銀行中心の金融制度(日本)と証券中心の金融制度(アメリカ)は一長一短であり,どちらが正しいと決められるようなものではないだろう。
公正の概念はその国の文化や慣習と密接に結びついているため,異なる文化圏の制度統合は必ず摩擦を引き起こす。当時,外務官僚として交渉にあたっていた國廣道彦氏もその説明に苦心したことを述べている。
特につらかったのは,米側の主張する「日本アンフェア論」と闘うことだった。例えば金属バット問題だ。何ゆえ高校野球連盟が米国製金属バットの使用を認めないのかを,説明するのは難しい。米側はそれを象徴的事例として,「日本は一事が万事この通り,アンフェアなことをやっている」と宣伝する。
―― 國廣道彦『回想「経済大国」自体の日本外交』
最終的に,日本では,消極的であれ積極的であれ,
アメリカに合わせた制度統合
が進められていった(それと同時に市場統合も進んだ)。ここに現代グローバリゼーションの本質をみることができる。
現代グローバリゼーションは「アメリカニゼーション」と言われることもあるが,それは世界的な市場統合とアメリカに合わせた制度統合が表裏一体で進んだからでらる。
年代 | グローバル化 | 制度統合 | 思想的特徴 |
---|---|---|---|
16世紀 | 海洋グローバリゼーション | スペイン主導 | カトリック |
1870-1910年代 | 帝国グローバリゼーション | イギリス主導 | 帝国主義 |
1970-2000年代 | 現代グローバリゼーション | アメリカ主導 | 新自由主義 |
そして,アメリカ主導の制度統合を実現するうえで,新自由主義の思想はきわめて有利に作用した。このことは第9章で再び取り上げる。
3.プラザ合意
貿易摩擦に次いで,
- ③各国政府が為替の協調介入を行ったこと(プラザ合意)
について説明する。結論からいえば,この問題は貿易摩擦のケースと本質的に同じである。
1985年に財務長官がD.T.リーガンからJ.A.ベーカーに変わると,アメリカ政府は経常赤字に関してドル高の問題を認めるようになった。なお,議会がドル高是正の法案を提出し始めたのは1986年以降であり,それ以前はほとんど言及されていなかった[8]。
そこで,ドル高を是正するための各国の協調介入が模索されることとなった。これが1985年9月のプラザ合意である。
- プラザ合意
- ドル高是正のためにG5(先進5ヵ国蔵相・中銀総裁会議)で公表された為替レート調整のこと。1985年9月にニューヨークのプラザホテルで合意された。
もっとも,その背後には
- 市場の実勢を反映せず,不当に安い日本円
という考え方があった。すなわち,協調介入についても,
実態経済からずれている為替水準を正常にする
という自由主義の文脈で行われたのである。
5.大臣及び総裁は,今後の政策決意と共に,彼らの国々の間の基礎的経済条件の最近の変化が,為替市場に十分反映されていないとの見解である。
―― プラザ合意(先進5ヵ国蔵相・中銀総裁会議の発表)
為替における市場統合
貿易交渉と同様,ここでも日本はアメリカ側の主張する「公正」を採用したことになる。
確かに,「日本円が不当に安い」ということは長らく国内外で指摘されてきたことであった。たとえば,高橋洋一教授(嘉悦大学)は頻発する為替介入(ダーティー・フロート)によって実勢にそぐわない円安が実現されていたと述べている。また,プラザ合意直前のドル円は物価水準の面からも円安に振れているという指摘がなされていた。
しかし,前述の通り,円安ドル高となった最大の要因は日米の経済政策における方向感の違いである(この点は前述の高橋教授も指摘している)。また,程度の違いはあれ,為替介入による誘導は欧米でも行われていたことだった。
すなわち,貿易のみならず,為替という点においても,日本はアメリカ型市場秩序(現代グローバリゼーション)に組み込まれていったのである。
ルーブルとプラザでの交渉は日本が資本主義のグローバル化の主役をアメリカから奪った一幕では決してなく,実際には,日本がアメリカ主導の国際金融システムにますます組み込まれ,ロンドンとニューヨークに所在するアメリカの金融機関の行動にますます敏感になり,アメリカ金融市場の乱高下にますます振り回されるようになったことの現れである。
―― L.V.パニッチ・S.ギンディン『グローバル資本主義の形成と現在』
以上より,アメリカの要求は(少なくとも形式上),
- 日本の内需拡張:日本の市場は閉鎖的で不公平だ
- プラザ合意:日本円は不当に安く不公平だ
と,自由主義擁護の格好をとっている。
いやいや,こんなのこじつけでしょ。自由主義じゃなくて,単なるアメリカのわがままじゃん。
確かに,これらの議論には首をかしげざるを得ない。実際,新自由主義のイデオローグであるM.フリードマンは上記のどちらにも苦言を呈している[9]。しかし,日本がこの解釈を受諾したことで,日本はアメリカ型市場秩序への統合を一層深めることとなった。つまり,アメリカ式の新自由主義が日本へと輸出されたのである。
確かに,日本もアメリカも自由を重要な価値基準としているが,その中身は文化や慣習の影響を受けるため,同じではない。言い換えれば,現代グローバリゼーションとは「アメリカの考える」自由を世界標準にするという試みに他ならなかった。
4.中南米債務危機
最後に,新自由主義の輸出によるグローバル化において最も重要な事件である中南米債務危機について説明する。
1980年代は,日本のみならず,中南米諸国もアメリカ型市場秩序に統合された。なお,現代グローバリゼーションのなかで中南米などの新興国・発展途上国が強制された改革は,日本が受諾したものよりもはるかに過激なものであった。
① 中南米債務危機の構造
1970~80年代,オイルショックによる原油価格高騰で先進国経済は傾いたが,中東産油国は多額の収益を獲得した。その資金は自国の開発にも使われたが,多くは国際金融市場へと流入していった(オイルマネー)。原油はドル建てで決済されるため,通常,余剰資金はドル預金として保有される。それらはアメリカの銀行などを通じて,相対的に金利の高い中南米向けの融資などに振り向けられていった。
中南米経済は多額の資金が流入したことで潤ったが,
- メキシコでの石油ブーム終焉
- ボルカーショック(米金利上昇)
により,資金の流れは反転する。
1982年8月にメキシコが債務不履行を宣言すると資本流出が加速し,債務問題は中南米全体へと波及していった(中南米債務危機)。
1982年8月 | メキシコ債務危機 |
1987年2月 | ブラジル債務危機 |
1994年5月 | メキシコ通貨危機(テキーラショック) |
1999年1月 | ブラジル通貨危機 |
2001年12月 | アルゼンチン通貨危機 |
当時,アメリカの主要9銀行による中南米3ヵ国への融資は自己資本を超える水準まで増加しており,十分な引当金も積まれていなかった。すなわち,中南米債務危機はアメリカにとってほとんど自国銀行の不良債権問題であった。
- ※ 主要9銀行:シティバンク,バンク・オブ・アメリカ,セキュリティ・パシフィック銀行(現バンク・オブ・アメリカ),現JPモルガン・チェース3行(モルガン銀行,ケミカル銀行,マニュファクチャラーズ・ハノーバー銀行),ファースト・インターステート(現ウェルズ・ファーゴ),バンカース・トラスト(現ドイツ銀行)。
これに対し,アメリカ政府は,民間銀行の不良債権処理を進めるのではなく,国際機関であるIMF(国際通貨基金)を利用し,中南米諸国の経済構造を変えることで債務を回収しようと考えた。つまり,「杜撰な融資を行った銀行を問題とする」のではなく,「返済能力のない人の生活を管理して返済させる」ということである。
レーガン大統領はそれまでIMFに否定的な考えを示していたが[10],中南米債務危機以降,一転してIMFへの増資を積極化させている。このことからもわかるよう,IMFが救済したのは中南米経済ではなく,アメリカの民間銀行であった。
② ワシントンコンセンサス
アメリカ政府が自国銀行救済のためにIMFを動かしているのではないかという疑惑は当時から存在していた[11]。実際,IMFが行った救済策は投資家(銀行)にとって有利なものばかりである。具体的には,
- 国営企業を民営化し,その売却益を返済に充てる
- 福祉削減や増税によって,政府の借り入れを減らす
- 規制を緩和し,外国企業の進出を受け入れる
など,緊縮財政・規制緩和のパッケージが施行された。これらは短期的な資本効率性を上げる(投下された資本に対するリターンを高める)ものだが,長期的にその国の経済をよくすることにはならないとされている。多くの経済学者は,これらの施策が格差の拡大や経済の不安定化を招いたとして批判している[12]。
しかし,メキシコで行われた過激な国家改造政策は,その後のIMFによる標準的な支援策となり,あらゆる国に適用されていった。これらはJ.ウィリアムソンにより,ワシントンコンセンサスという名で定式化されている。具体的には,以下の10項目の政策によって構成される。
- ①財政赤字の是正
- ②政府支出の削減
- ③税制改革
- ④金融自由化
- ⑤競争力ある為替レート
- ⑥貿易自由化
- ⑦海外直接投資の受け入れ
- ⑧民営化
- ⑨規制緩和
- ⑩所有権法の確立
この考え方(注:ワシントンコンセンサス)は,おそらくラテンアメリカに特有と思われる問題を解決するために生まれたものだったが,世界中の国に適用できるはずだと考えられた。そして,資本市場の自由化がすすめられたが,これが経済成長をうながすという証拠はまったくなかった。
―― J.スティグリッツ『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』
③ 債務国の市場統合
IMFはワシントンコンセンサスを融資条件としたため,債務危機に陥った国は新自由主義的な政策を実行せざるを得なくなった[13]。ただし,ここにもアメリカ(先進国)に有利な解釈が含まれている。IMFなどは新興国・発展途上国で債務危機が生じた理由を,
返済能力が低かったこと
にあるとし,債務国の政府介入が過剰であったことを問題視した。確かに,中南米諸国で杜撰な財政・金融政策が行われていたことは事実である。しかし,危機の本質は
外国資本に依存しすぎたこと
にある。したがって,危機を防ぐには対外依存度を低下させ,自国での資金調達能力を高めることが重要になる。
しかし,IMFの改革案はそれと逆行する。すなわち,対外依存度を高め,より国際金融市場に従属する構造へと再設計されていったのだ。これは新自由主義経済学によって正当化された,アメリカ型市場秩序への統合であった。つまり,ここでも新自由主義が輸出されたのである。
日本やメキシコの例からもわかるよう,市場統合には必ず制度統合が付随する。その制度枠組みは最終的にパワーゲームで決定されるため,多くの国はアメリカに合わせて自国制度を改変する。現代グローバリゼーションとは,新自由主義経済学によって正当化された「アメリカ式」の拡張プロセスであった。
- ^1グローバル化は過去に何度もあり,その縮小も何度もあった。
- ^2たとえば,アメリカのニューディール政策について,「景気が回復したのは政策によるものではなく,戦争によって特需が発生したからだ」という意見があるが,財政拡張による需要増加という点では同じである。したがって,意見の正否にかかわらず,ケインズ経済学では基本的に同様の説明がなされることになる。
- ^3対日赤字問題については「二国間の収支だけで判断するのは不適切」と前置きをしたうえで議論を述べており,政府の認識というより,財界の圧力が強く反映された格好になったものとみられる。
- ^4具体的には,(1)大統領権限による通商法301条調査の発動,(2)日米半導体協定違反に基づく100%関税,などがそれに当たる。これらは新自由主義経済学の考え方に反している。
- ^5たとえば,上下両院を通過した繊維輸入割当法案をレーガン大統領は拒否している(1985年12月)。これにより,立法府と行政府の対立は誰の目にも明らかになった(S.D.コーエン『アメリカの国際経済政策』)。
- ^6日米貿易摩擦は日本が米国の経済枠組み(冷戦構造)を利用することによって生じた問題であり,米中貿易戦争のような経済枠組みの衝突(覇権戦争)ではない。前川レポートの「世界経済への貢献」も,日本がアメリカの枠組みにただ乗りしていると批判されたために組み込まれたとされている。
- ^7たとえば,当時のアメリカの商務省参事官はメインバンク制に対して「仮に企業が損をしても系列銀行が資金を援助するシステム」と解釈しており,不正競争の事例として批難している(C.プレストウィッツ『日米逆転―成功と衰退の軌跡』)。
- ^81985年2月に米ドル高がピークを迎えるまで,「見向きもされなかった」とされている(S.D.コーエン『アメリカの国際経済政策』)。なお,日米両国が,保護主義を訴える米国議会を巻き込むより,政府交渉で済ますことができる為替調整を志向したという見方もある(中野剛志『富国と強兵』)。
- ^9M.フリードマンはインタビューで,プラザ合意について「協調介入がかえって市場調整を遅らせた」(日本経済新聞,1990年4月11日付),日本への内需拡大要求について「アメリカが日本の経済運営に口を出すべきではない」(グローバル・ビジネス,1991年1月号)と述べている。
- ^101982年の大統領経済報告ではIMFによる救済よりも二国間援助の方が国益に資するという見方が示されている。
- ^11このような疑惑に対し,リーガン財務長官は上院の委員会で「IMFが途上国に融資を行えば,その安心感によって民間銀行の融資が促進される」といった説明を行った。しかし,実際に民間の融資が加速することはなく,IMFの融資は銀行への返済保障としてしか機能しなかった。
- ^12たとえば,ノーベル経済学賞を受賞したJ.スティグリッツの著書『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』などでは全編にわたってそのことが記述されている。
- ^13ワシントンコンセンサスに基づいた政策を行えば,国際金融市場への従属は高まるため,途上国はますますワシントンコンセンサスを拒否することが難しくなっていった。したがって,いったん債務不履行に陥れば,IMFを通じて現代グローバリゼーションに統合される仕組みとなっている。