Theme 1:なぜデフレは放置されたのか
第2章 価格伸縮性と学派論争
第1章で述べた通り,経済学の学派を分ける重要な前提として価格伸縮性の違いがある。そこで,第2章では高い価格伸縮性を前提とする新古典派経済学を中心に学派の簡単な特徴を説明する。
まず,
新古典派経済学 vs ケインズ経済学
という学派論争の構図を確認し,それがどのような形で収束していったのかを概観する。
1.学派論争の構図
まず,前章までの枠組みを簡単に振り返る。デフレと不況が結びつくのは総需要不足が,
- 価格調整:値下げ(デフレ)
- 数量調整:生産縮小(不況)
という形で表出するためだ。
言い換えれば,すべてが価格で調整される場合,デフレは問題にならない[1]。したがって,デフレ経済をどれだけ深刻な問題ととらえるかは,
価格伸縮性:物価や賃金がどれだけ伸縮的に変動するか
という議論に帰着する。
前提 | 企業の意思決定 | デフレ経済 |
---|---|---|
価格伸縮的 | 主に価格調整 | 不況としての性格弱い |
価格硬直的 | 主に数量調整 | 不況としての性格強い |
バブル崩壊後,多くの学者がデフレ対策を軽視した理由のひとつとして,当時主流だった経済学が強い価格伸縮性を認めていたことが挙げられる。なお,こうした仮定を置く学派としては,
- 新古典派経済学:価格は完全に伸縮的であると仮定
- 新自由主義経済学:価格は非常に伸縮的であると仮定
が挙げられる。前章で紹介した,
デフレで収益が下がっても,費用も下がるから関係ない
という主張は,まさしく新古典派経済学の考え方に該当する。
一方,価格硬直的な前提を持つ学派としては
- ケインズ経済学:価格はさほど伸縮的ではないと仮定
が挙げられる。この価格伸縮性に関する論争が,よく言われる
新古典派経済学 vs ケインズ経済学
の基本的な枠組みとなっている。
① 経済学と学派
なお,マクロ経済学における「学派」の存在を嫌悪する者は少なくない。
経済学者は新古典派だのケインズ派だのくだらない派閥争いばかりしている。真実はひとつなのに,何で学派にこだわる必要があるのか。
結論からいえば,経済学における「学派」とは前提の違いのことである。マクロ経済学において学派論争が目立つのは,Part 1で述べた通り,他学問と比べて前提に関する論争が極端に多いからだ。
いかなる議論においても,その土台には前提,仮定,価値観などが存在する。複数の学派が存在するのはその違いであって,論理的な間違いがあるからというわけではない。
- 「基礎的な」経済学の理論
- マクロ経済学と前提の違い(第3部 Part1 第2章)
たとえば,前述の
デフレで収益が下がっても,費用も下がるから関係ない
という単純な主張においても強い価格伸縮性という隠れた前提が存在した。実際のところ,多くの人々は無意識のうちに様々な前提を置いて経済を説明している。
② 解釈としての社会科学
それでは,どの前提が「正しい」のだろうか。少なくとも,その正しさを論理的に証明することはできない。なぜなら,前提は論理を組み立てるための条件であって,論理それ自身によって与えられることはないからだ。したがって,前提に関する論争は
- どれがもっともらしいか
- どれが正しい「可能性が高い」か
という蓋然性の問題となる。
この意味からすれば,上記ツイートの「真実はひとつなのに」という論拠も正しくない。経済学は解釈であるため,複数の見方が併存するのは当然である。
もちろん,ある経済現象を説明するのに「どれがもっともらしいか」という形で優劣をつけることはできる。しかし,それは解釈がひとつしか存在しないということを意味するものではない。Part 1で示した通り,ひとつの現象に対して様々な解釈・観点があるというのは社会科学の特徴である。
- 巨大予測システムの陥穽
- 知識の水平的蓄積(第3部 Part1 第9章 - 3)
なお,これは社会科学に限った話ではないが,自身と相手の前提(仮定,条件,ビジョン,価値観,常識など)の違いを自覚していなければ,
同じ情報と材料が用意されているのに,どうしてこの人は同じ結論にならないんだ!
という形で議論が紛糾することも少なくない。このことからもわかる通り,経済に関する不毛な論争は学派によって生じるのではなく,むしろ学派を自覚していないことから生じる場合が多い。
このように,マクロ経済学では前提が決定的に重要となる。そこで,以降では「価格が完全に伸縮的である」という前提(新古典派経済学)に立った場合,
- どのような結論が導かれるのか(論理)
- その結論は日本の経済問題を描写するのものとして適当なのか(蓋然性)
ということについて考えていく。なお,新自由主義経済学については第4章で説明する。
2.新古典派経済学の理論
学派とは前提の違いであり,その論争は蓋然性(適切な近似かどうか)の問題になる。それでは,バブル崩壊後の日本経済を議論するうえで,新古典派経済学は適切な近似になり得たのだろうか。
結論からいえば,新古典派経済学による処方箋は不適切であった。そのことは,種々の仮定をからも直感的に判断できる。
- 売れ残りが存在しないと仮定している
- 完全雇用を仮定している
- デフレは不況と関係ないとしている
- 財政政策に意味はないとしている
上記の仮定がバブル崩壊後の日本経済にマッチしていると考える人はほとんどいないだろう。
何でこんな現実離れしてた仮定を置いているんだ!新古典派経済学の学者はバカしかいないのか!
実のところ,これらの仮定はいずれも強い価格伸縮性という前提をとっている限り,必然的に導出される。以降ではその論理構造について簡単に説明する。
① セイの法則
新古典派経済学では価格が完全に伸縮的なため,簡略化していえば,
- 人気のある物:需給が釣り合うまで価格上昇
- 人気のない物:需給が釣り合うまで価格下落
という形で調整される。
一見,当たり前のようだが,仮に需給が釣り合うまで価格が下落するならば,
新古典派経済学:売れ残りという概念が存在しない
という結論が導かれる。売れ残りそうな物は売れるまで値下がりが続く(価格調整)。したがって,完全な価格伸縮性を仮定すれば,「供給される物は必ず需要される」という命題(セイの法則)が成立する。
- セイの法則
- 供給と需要が価格調整によって完全に一致するという前提。この場合,需要量はすべて供給量によって決定されることになる。
- ※ 「セイの法則」は古典派経済学者であるJ.B.セイの述べた命題とされるが,一般に広まっているのはケインズが著書で取り上げたものであり,実際にはセイの主張がかなり簡略化されている。
このセイの法則からは,さらに次のような結論が導ける。
A:完全雇用
新古典派経済学の前提に立つならば,労働市場の「売れ残り」である失業者も存在しないことになる(完全雇用)。もちろん,現実には失業者がいるのだが,新古典派経済学では彼らを「売れ残り」とは解釈せず,
新古典派経済学:失業者=賃金に納得せず,自らの意思で失業を選んでいる人
と考える。
仮に非自発的失業があるとすれば,それは賃金の伸縮的な調整(価格調整)を阻害する社会制度の方に問題があるという結論になる。すなわち,第1章で述べた構造説が適用されることになる。
- 新古典派経済学の労働市場
- 新古典派経済学と失業問題(第3章 - 1)
B:乗数効果
新古典派経済学では数量調整が存在しないため,乗数効果はゼロとなる。したがって,
新古典派経済学:財政政策は実体経済になんら影響を与えない
という結論になる。このため,新古典派経済学では必然的に「小さな政府」が志向されることになる。
- 乗数効果論争
- 乗数効果が生じる仕組み(第3部 Part1 第3章 - 3)
需要の拡張が価格にしか影響を与えないということは,供給曲線が垂直であるということを意味している。
以上より,新古典派経済学では生産能力の増強だけが経済の拡大を促すという結論になる。このことはセイの法則(供給が増えれば需要は後からついてくる)とも整合的といえる。
② 古典派の二分法
価格が完全に伸縮的ならば,
新古典派経済学:デフレと不況は無関係
という結論が導かれる。このことは第1章で示した通りだ。
- デフレと不況の関係
- デフレと不況は無関係という主張(第1章 - 2)
なお,デフレとは物価の下落であると同時に,貨幣価値の上昇でもある。
貨幣以外の物の価値 | 貨幣価値 | |
---|---|---|
インフレ | 上昇 | 下落 |
デフレ | 下落 | 上昇 |
したがって,上記の主張は「貨幣価値の変動は景気と無関係」と言い換えることができる。この発想は以下のような貨幣観にも見ることができる。
インフレ・デフレなんていうのは「貨幣というモノサシで測ったときの価値が変化した」というだけ。実体経済は何も変わっていない。
すべてが価格調整として反映されるならば,貨幣量が2倍になった場合,そのまま物価も2倍になる。このとき(社会的な混乱は生じるかもしれないが)実体経済は何も変化していない。この考え方は古典派の二分法と呼ばれており,アダム・スミスによって導入された。
- 古典派の二分法
- 貨幣市場の変動は実体経済に一切影響を与えないとする考え方。貨幣ヴェール観とも呼ばれている。
「デフレと不況は無関係」という主張も,貨幣市場(物価)と実体経済(景気)の独立性を示したものであり,古典派の二分法を言い換えたものにすぎない。
A:金融政策
貨幣価値の変動が実体経済に影響を与えないのであれば,貨幣量の変動もまた実体経済に影響を与えない。したがって,
新古典派経済学:金融政策は実体経済になんら影響を与えない
という結論が導かれる。財政政策と同様,需要の拡張は物価の上昇にしかつながらない。
B:手段としての貨幣
新古典派経済学において貨幣は純粋な手段であり,目的とはなり得ない。実際,アダム・スミスが古典派の二分法を持ち出したのも,当時の人々が貨幣の蓄積を目的化していたことが挙げられる(重商主義)[2]。この貨幣観に従えば,
新古典派経済学:使用目的なくお金を貯めることは非合理的
という結論が導かれる。
そりゃお金なんて使わなかったら何の意味もないよね。新古典派経済学の言っていることは完全に正しいんじゃないの?
しかし,ケインズはこの見方に反対している。具体的には,理論に「不確実性」を組み込むことで,貨幣が手段のみならず目的にもなり得ることを主張した(流動性選好説)。理論の詳細は別ページで述べることとし,ここでは新古典派経済学に対するケインズ経済学の結論だけ簡単に説明する。
貨幣の蓄積が目的となり得る場合,「どの程度の貨幣を手元に持っておきたいか」という貨幣需要によって金利が変動することになる。金利の変動は事業投資の意思決定に影響を与えてしまうため,結果として
ケインズ経済学:貨幣市場の変動が実体経済に影響を与える
という形になる。
ケインズ経済学において貨幣と実体経済は相互に影響を与え合う。それゆえ,金融政策(貨幣供給の増減)が有効であるという結論になる。
③ 前提の蓋然性
以上より,新古典派経済学における
- 売れ残りが存在しないと仮定している
- 完全雇用を仮定している
- デフレは不況と関係ないとしている
- 財政政策に意味はないとしている
といった仮定は価格伸縮性の前提と整合的になっている。
逆にいえば,上記の仮定に違和感がある場合,まず価格伸縮性の前提を疑うべきだろう。前提が蓋然的ではないならば,新古典派経済学の考え方は適用できなくなる。
①セイの法則について
第2部 Part 1で述べた通り,バブル崩壊後の日本企業は過剰在庫に苦しめられてきた。
このことは1990年代から認識されており,経済白書でも3つの過剰(雇用,設備,債務の過剰)と表現されている[3]。これはいずれも数量調整であり,当時の日本では価格がそれほど伸縮的ではなかったということを示している。
②古典派の二分法について
これも第2部 Part 1で述べたことだが,日本経済の問題点は
- 家計の節約
- 企業のコスト削減
にある。これは,家計や企業が使用目的もなく貨幣を蓄積しているということであり,古典派の二分法が成立していないことを示している。
いやいや,将来の不安に備えるっていう目的があるでしょ!家計の節約だっておなじじゃん!
将来の不安に備えることは「使用目的」に該当しない。むしろ,不安の解消に貯蓄が役立つならば,それは貨幣自体に価値を見出しているということであり,貯蓄が目的となっていることを示すものである。また,その背景に将来の不安(不確実性)があるという主張も,ケインズが指摘した理論そのものである。
既に述べたように,日本では多額の内部留保が問題となっているが,これらは「何らかの使用目的で一時的に蓄積されている」というわけではない。そして,ケインズの理論に従えば,この手の貯蓄は実体経済に影響を及ぼすことになる。
Part 1までで示した解決策をみて,
なんだこの解決策は!ほとんどケインズ経済学の処方箋じゃないか!
と思った人も多いだろう。その理由のひとつには,
日本経済の問題に新古典派経済学の考えを適用することは不適切
ということがある。もちろん,このことは新古典派経済学の論理に間違があることを示すものではない。しかし,バブル崩壊以降の日本に限れば,その前提には蓋然性がない。
したがって,日本経済を論ずるうえで新古典派経済学が有効なツールになるとは考えにくく,同様に,「デフレと不況が無関係」という主張も成立しないと考えられる。
3.新古典派経済学の政策枠組み
新古典派経済学においては,価格伸縮性の前提から,
- 財政政策は実体経済になんら影響を与えない
- 金融政策は実体経済になんら影響を与えない
という結論が導かれた。すべてが価格調整として反映されるなら,財政政策や金融政策は物価を上下させる要因にしかならない。
なお,一部では,
新古典派経済学は「小さな政府」を志向する市場原理主義の学派だ!
と言われることもあるが,彼らが「大きな政府」に批判的な最大の理由は政府介入が無意味だと考えているからである。
学派 | 価格 | デフレ | 低迷の原因 | 需要管理政策 |
---|---|---|---|---|
新古典派経済学 | 伸縮的 | 不況と無関係 | 構造説 | 無意味 |
ケインズ経済学 | 硬直的 | 不況を伴う | デフレ説 | 効果的 |
しかし,このことに関する誤解は依然として多い。以降では,新古典派経済学が処方する経済政策について概観する。
① 供給管理の学派という誤解
ケインズ経済学では財政政策や金融政策による需要管理を重視している。一方,新古典派経済学はこの見方に反対するわけだが,このことについて,一部では「新古典派経済学は供給管理の学派である」という誤解が述べられることがある。
新古典派経済学は供給拡張を訴える学派。一方,ケインズ経済学は需要拡張を訴える学派。日本はデフレ気味だからケインズ経済学の方が勢いがある。
新古典派経済学もケインズ経済学も政策による供給拡張が難しいと考えており,そこに違いはない。
学派 | 供給管理 | 需要管理 |
---|---|---|
新古典派経済学 | 不可能 | 無意味 |
ケインズ経済学 | 不可能 | 効果的 |
サプライサイド経済学 | 可能 | 無意味 |
- ※ サプライサイド経済学は新自由主義経済学の学派のひとつ。第5章で説明する。
新古典派経済学がケインズ経済学と異なる点は,需要管理(デフレ対策)に意味を見出さない点である。それゆえ,新古典派経済学の結論は
政府は余計なことをせず,市場メカニズムに任せるべき
という形になる。
でも新古典派経済学の人たちは構造改革とか支持するわけだよね?じゃあ供給増強を訴える学派なんじゃないの?
確かに,デフレ説と構造説であれば,新古典派経済学では構造説が支持されると述べてきた。しかし,それは
- デフレと不況は関係ない
と考えていることが理由であって,構造説は消去法的に支持されているに過ぎない。実際,新古典派経済学の主張する構造改革とは政府による生産増強ではなく,市場メカニズムを阻害する規制の撤廃(規制緩和)のことを指している。
- ※ 構造改革と規制緩和をほとんど同義語として使うという傾向は,新古典派経済学のみならず,新自由主義経済学のほとんどの学派でもみられる。
一方,
政府が積極的な産業政策を行い,供給能力増強を図るべきだ
という発想は新古典派経済学の前提と相いれない。上記の考え方はどちらかといえばサプライサイド経済学のものだ。このことは第4章で説明する。
② インフレ対策の学派という誤解
新古典派経済学ではデフレを問題としない。しかし,このことについて,「新古典派経済学はインフレ対策(緊縮財政)の学派である」という誤解が述べられることがある。
新古典派経済学はインフレ対策の経済学。一方,ケインズ経済学はデフレ対策の経済学。日本はデフレ気味だからケインズ経済学の方が勢いがある。
上記の主張には2つの誤解が含まれている。
A:ケインズ経済学に対する誤解
第1に,ケインズ経済学に対する誤解だ。確かに,ケインズ経済学はデフレ対策を念頭において理論化された。しかし,その対策を反転させればそのままインフレ対策になるため,デフレ対策に限定された学派というわけではない[4]。
- C(消費)を減らす(増税など)
- I(投資)を減らす(金融引締めなど)
- G(政府支出)を減らす(公共事業削減など)
需要を縮小すれば,インフレの過熱を抑制できる[5]。なお,これらの施策は緊縮財政と呼ばれるが,その目的は財政健全化ではないため,一般にイメージされる緊縮財政とは若干趣旨が異なる。
経済スタンス | 目的 | 公共事業 | 税制 |
---|---|---|---|
ケインズ経済学のインフレ対策 | インフレ抑制 | 削減 | 増税 |
緊縮財政 | 財政再建 | 削減 | 増税 |
B:新古典派経済学に対する誤解
第2に,新古典派経済学に対する誤解だ。新古典派経済学ではデフレが問題とならないが,同様に,インフレもまた問題とならない。したがって,そもそもインフレ対策という概念自体が存在しない。
でも構造説を唱えてる人ってだいたい公共事業削減とか言ってるよね?やっぱり新古典派経済学はインフレ対策の経済学なんじゃないの?
新古典派経済学で公共事業削減が訴えられる理由は,財政赤字の場合と,そうでない場合でやや理由が異なる。
まず,財政赤字ではない場合について考える。新古典派経済学において,
- 財政政策は実体経済になんら影響を与えない
と想定されていることを説明した。したがって,新古典派経済学が財政拡張に反対するのは意味がないからであり,インフレ抑制を目的としているからではない。
そのため,新古典派経済学ではインフレかデフレかにかかわらず,基本的には,
- 財政縮小
- 給付金削減
- 減税
などが志向される。これはケインズ経済学のインフレ対策が増税を志向しているのと対照的である。
経済スタンス | 目的 | 公共事業 | 税制 |
---|---|---|---|
新古典派経済学の基本姿勢 | 小さな政府 | 削減 | 減税 |
ケインズ経済学のインフレ対策 | インフレ抑制 | 削減 | 増税 |
次に,財政赤字の場合について考える。繰り返しになるが,新古典派経済学において,
- 財政政策は実体経済になんら影響を与えない
と想定されている。したがって,財政拡張と同様,財政緊縮もまた景気に影響を与えない。
そのため,財政赤字であれば,好況か不況かにかかわらず財政再建が志向されるため,
- 財政縮小
- 給付金削減
- 増税
という形になる。
経済スタンス | 目的 | 公共事業 | 税制 |
---|---|---|---|
新古典派経済学の基本姿勢 | 小さな政府 | 削減 | 減税 |
(新古典派経済学の)緊縮財政 | 財政再建 | 削減 | 増税 |
4.新古典派総合
ケインズ経済学が勃興して以降,価格伸縮性の前提をめぐり,新古典派経済学とケインズ経済学の間で激しい論争が繰り広げられた。しかし,1960年代には以下のような形に落ち着くことになる。
- 短期:価格は硬直的で,ケインズ経済学の方が正しい
- 長期:価格は伸縮的で,新古典派経済学の方が正しい
短期と長期のとの重要な相違は価格の動きにあると多くの経済学者は考えている。長期においては,諸価格は伸縮的であって,需給の変化に対応できる。しかし,短期においては,諸価格の多くは何らかの既定水準から動かず,「硬直的」である。短期と長期では価格の動きが異なるため,経済政策の効果も異なってくる。
―― G.マンキュー『マクロ経済学Ⅰ 入門編』
このような形で両者を合わせたのが新古典派総合と呼ばれる学派である。
- 新古典派総合
- 新古典派経済学とケインズ経済学を組み合わせた学派。アメリカ・ケインズ経済学とも呼ばれる。
① 短期と長期
新古典派総合のまとめ方には違和感がある人も多いともうが,その理論枠組みを簡単に説明する。
短期と長期で価格の動き方が異なる理由は,以下のような企業の意思決定を前提としているからだ。
- 短期:需要の増減に合わせ,企業は可能な範囲で生産戦略の変更を行う(数量調整)
- 長期:需要増が生産余力を超えた場合,または,需要減が恒常的に続いた場合,企業は価格改定を行う(価格調整)
集計需要は,短期においては実質算出の動きにたいし重要な影響力を発揮する。しかしながら長期においては,実質算出は主として潜在的産出力により決定されるのであって,集計需要の主な影響は物価水準にたいするものである。
―― P.A.サミュエルソン『経済学〈上〉』
もっとも,「短期」「長期」は具体的な期間ではなく,きわめて概念的なものである。そのため,実際には
- 数量調整が行われる期間が「短期」
- 価格調整が行われる期間が「長期」
といった方が適切だろう。経済学における「短期」「長期」とはほとんど経済学用語といっていい。
期間 | 学派 | 価格 | 企業戦略 | 主な問題 |
---|---|---|---|---|
短期 | 新古典派経済学 | 硬直的 | 数量調整 | 景気変動(デフレ説) |
長期 | ケインズ経済学 | 伸縮的 | 価格調整 | 経済成長(構造説) |
以上の枠組みからすれば,
デフレから脱却するには構造改革しかない
という主張は短期の問題と長期の問題を混同しているということがわかる。すなわち,短期-長期の誤謬という考え方は新古典派総合の理論に基づいている。
② 新古典派総合の問題点
新古典派総合は,形式上,
短期はケインズ経済学,長期は新古典派経済学
となっている。しかし,第1章で述べた通り,短期と長期の政策がバッティングした場合,緊急性の面から必ず短期の政策が優先される。それゆえ,新古典派総合は「新古典派」となってはいるものの,実態はほとんどケインズ経済学である(新古典派総合は単に「ケインズ経済学」と呼ばれることも多い)。
- ※ 上図からもわかるように,「ケインズ経済学」と「ケインズの理論」は同じではない。
もっとも,新古典派総合に対しては
- 学術的な厳密さに欠ける
という問題点が指摘されていた。上記の「短期」「長期」に関する議論もそのひとつといえるだろう。新古典派「総合」とはいうものの,その実態は両学派を期間でわけた「接合」にすぎない。
こうした批判のなかで,新古典派総合は主流派経済学から外れるようになり,代わって新自由主義経済学が勃興するようになっていった。しかし,その新自由主義経済学もリーマンショック後に「現実離れしている」という批判を浴びることになる。
このような,
新古典派総合 vs 新自由主義経済学
という構図には,現実と理論のバランス問題が横たわっている。
新古典派総合は政策科学としての色彩が強く,それゆえ理論的な精密さに欠けるという問題があった。一方,新自由主義経済学のいくつかの学派は,理論としては非常に洗練されている。しかし,リーマンショックを受け,現実から乖離した抽象理論だったのではないかという疑念が向けられるようになった。
- ※ 新自由主義経済学がすべて現実離れしているというわけではない。むしろオイルショック時には通貨主義経済学(新自由主義経済学の一学派)の方が現実をよく描写しているという評価されていた。ただし,第4章で説明するように,その理論は現実から乖離する方向へと発展していくことになる。
現実に傾斜しすぎれば理論としての質は下がる。しかし,だからといって空理空論を現実に適用することはそれ以上に危険である(リーマンショックはその表れだったという評価もある)。その点において,新古典派総合のアプローチには一定の再評価が与えられるべきだろう。
新自由主義経済学については第4章で説明することとし,第3章ではこれまでの議論をもとに労働市場改革の問題を再考する。
- ^1『3つの過剰』という言葉は1999年度の年次経済白書で用いられた。
- ^2アダム・スミスは当時の政府が貨幣(貴金属)の蓄積を第一に考えていたこと(重商主義)に対し,富の本質は農産物などの財,ひいてはそれを生み出す労働力にあり,貨幣はそれを測る手段でしかないと主張した。
- ^3ただし,ここでいう「インフレ対策」とは需要超過によって生じるインフレ(ホームメイドインフレ)に対してである。オイルショックのような供給不足によって生じるインフレ(スタグフレーション)を解決する手段というわけではない。
- ^4ケインズはインフレ対策について何も言及していなかったわけではない。たとえば戦争による支出拡大(総需要拡大)によって生じるインフレなどでは強制貯蓄などの政策を提案している(ケインズ『戦費調達論』)。
- ^5これは新古典派経済学の解釈であって,新自由主義経済学における恒常所得仮説とは異なる(第5章で説明)。