Theme 4:経済学と複雑系
第9章 複雑系とマクロ経済学
前章に引き続き,経済現象の複雑性について説明する。前章で述べた通り,ミクロの合計がマクロになるとは限らない。それは要素(ミクロ)の間に
- 特徴1:非線形性
という関係があるからだ。
なるほど!じゃあ,要素だけじゃなくて,関係性にも注目して経済を組み立てよう!
これがミクロ経済学の発想であることはすでに述べた通りである(マクロ経済学の発想ではない)。
- ミクロ経済学的アプローチ
- ミクロ経済学の基本的な考え方(第8章 - 3)
しかし,複雑性が増すほどこのアプローチは機能しなくなる。それが顕著に表れるのが,
- 特徴2:創発
- 特徴3:自己組織化
と呼ばれる現象だ。この段階に入ると,ミクロ経済学的なアプローチは大幅に制限されることになる。
1.創発と自己組織化
前章では非線形性について説明したが,(ポートフォリオ理論のように)解析的に解くことができる非線形最適化などを「複雑」と呼ぶことはほとんどない。一般に複雑系とされるのは創発や自己組織化を含むシステムである。以降ではこの2つの現象について説明する。
① 創発
創発については「個々の性質の総和では説明できないような全体の性質が表れること」と説明される場合が多い。
それって非線形性と同じじゃない?何が違うの?
確かにこの定義であれば非線形性と同じである。事実,組織論などでは創発と非線形性がほとんど同じ意味で使われていることもある。ただし,通常創発とされるのは,
要素とそれを結ぶ関係性の数が多い場合
を指す。一般に創発のモデルとされるような複雑性は「要素間の関係が複雑であること」よりも「関係の量が多いこと」に起因する。
この例としては人間の脳が挙げられるだろう。脳は神経細胞(とグリア細胞)の集まりだが,神経細胞の構造の多くが解明されているのに対し,脳の構造については依然として未知の部分が多い。このように要素ではなく関係が主役になるようなシステムでは,その構造を演繹することがほとんど不可能になる(強創発性)。
- ※ 蟻塚は創発現象の例としてよく挙げられる。
創発において個別の要素は全体の動向に大きく左右される。そのため,創発の特徴はミクロ経済学的アプローチによって解明できない。なぜなら,前章で述べた通り,ミクロ経済学の本質は個→全の流れにあり,全→個の流れが多く確認される創発では十分な説明能力を持たないからだ。
たとえば,前章ではミクロ経済学的アプローチによって,非線形な関係を持つ株から最適ポートフォリオを組成できることを例示した(ポートフォリオ理論)。しかし,「ポートフォリオの動向によって個別株はどう動くか」ということについては何も説明できていない。
- 非線形性
- ポートフォリオ理論(第8章 - 2)
このように,個別の要素が全体においてどのような役割を果たしているのか調べる場合,議論は全体ありきの形になる。
単細胞生物が強制して多細胞生物になる場合でも,多くの器官の協同によって営まれる身体でも,いつも,全体は部分の総和以上のものになる。ここでは,部分部分が,有機的に組織された全体の一部として働くことによって,部分にはみられない新しい特性を発揮する。この点から言えば,部分なくして全体はないとともに,また,全体なくして部分はないと言える。
―― 小林道憲『複雑系の哲学』
当然,全体は個別の要素なくして成立しない。したがって,創発は個→全と全→個の両方の特徴を持つことになるが,これは
ミクロ(個別)とマクロ(全体)の間にフィードバックループが存在する
ということを意味している。
■ 社会システムと創発
前章において,人間関係は非線形性の最たる例と述べたが,その集積である社会は創発のひとつである。なお,個人主義を標榜する者のなかには,以下のような社会観を持つものも少なくない。
社会とは個人の集まりであって,それ以上でもそれ以下でもない。社会などというものはなく,あるのは個人だけ。みんなこの事実を忘れがち。
上記の主張は構成員が互いに何ら関係を持たないような,特殊な集合の場合にしか成立しない。なお,社会学(形式社会学)では社会の本質を要素ではなく関係の方に置く[1]。たとえば,社会学の大家であるG.ジンメルは,織物を社会,それを織る糸を人間関係,その結び目を個人に例えて表現している。
個人とは社会的な糸がたがいに結びあう場所にすぎず,人格とはこの結合に生じる特別な様式にほかならない。
―― G.ジンメル『社会学』
社会や個人が移り変わるのは,その本質が関係性にあるからだ。それゆえ,個人が集まっても関係性(相互作用)がなければ社会とはなり得ないとジンメルは述べている。
実際,個人の関係によって社会が構成される(個→全)一方,社会がどのような状況にあるかは個人の意思決定に影響を与える(全→個)。経済状況によって企業が意思決定を変更するのもそのひとつといえるだろう。後で詳しく述べるが,このことは数理モデルの構築に重大な影響を与えることになる。
② 自己組織化
自己組織化とは個別が(全体を意識せずして)全体の秩序を創造していく現象である。この説明であれば創発とほとんど同じだが,自己組織化はそのプロセスについて言及される場合に用いられやすい。
- 自己組織化
- システム(集合体)が自らを組織化して調和させていく現象。
たとえば,自己組織化の例としては台風が挙げられる。台風の内部に送り込まれた水蒸気は上昇気流によって上昇し,やがて凝結する。その際に放出される熱によって上昇気流は強まり,さらに多くの水蒸気が送り込まれることになる。この繰り返しによって台風は勢力を拡大していく。この自己増強的なプロセスが自己組織化にあたる。
注目すべきは,いかに巨大な台風であっても当初は微弱な上昇気流(太陽熱による海面の蒸発など)から始まるということである。それらは自己組織化によって巨大化するものの,永遠に巨大化が続くわけではない。台風そのものによる海面温度の低下などで勢力は低下し,やがて消滅する。
A:気象現象と自己組織化
台風の事例は,きわめて微弱な変化が増幅プロセスを経て甚大な影響を与える可能性があることを示している。このような現象はバタフライ効果と呼ばれている。
- バタフライ効果
- わずかな変化の違いが大きな影響を与えてしまう現象。予測困難な初期値鋭敏性の表現として用いられる。
バタフライ効果という名前は気象学者のE.N.ローレンツ教授(マサチューセッツ工科大学)が行った「ブラジルでの蝶のはばたきがテキサスに竜巻を引き起こすか」という公演に由来している。ローレンツ教授は3変数による気象シミュレーションにおいて,小数第6位まで入力したものを小数第3位までの入力でやり直したところ,まったく異なる結果になったとしている。
- ※ バタフライ効果(初期値鋭敏性)自体はロジスティック写像のような簡単な数式でも確認することができる。要素数の多い創発のようなものでなければ生じないというものではない。
気象現象は複雑系に該当する。そのため,300年後の日食日時が正確に予測できるのに対し,気象予報は正確な予測をすることが難しい(2週間を超える長期の予測はほとんど不可能といっていい)。この問題については後で再び取り上げる。
B:経済現象と自己組織化
P.クルーグマン教授(ニューヨーク市立大学大学院センター)は景気変動にも気象現象と同じような性質がみられることを指摘している。
しかし,長い歴史を通してみると,ほとんどの好況と不況にははっきりとした外生的要因はみられない。最も顕著な例は,すべての経済不況の原型である1929年から33年にかけての景気後退である。それは,あたかも青天の霹靂のように起きた。
―― 自己組織化の経済学
クルーグマン教授は著書において「経済学では自己組織化の研究がほとんど進んでいない」と指摘しており,いまだ体系化されていない分野といっていい。ただし,景気変動を自己組織化ととらえることで,ひとつ重要な点が明らかになる。それは,
景気変動に「きっかけ」はあったとしても,明確な「原因」があるわけではない
ということだ。したがって,第2部 Part 1でも述べた通り,不況の犯人捜しを行うことにほとんど意味はない。
- デフレ不況と自己組織化
- 日本のバブル崩壊のケース(第2部 Part1 第7章 - 4)
C:社会システムと自己組織化
自己組織化は経済にとどまらず,社会システムのあらゆる所にみられる。そのひとつにいじめが挙げられる。
そもそも,いじめの正体とはいったい何でしょう。加害者生徒,教師,学校,いえ,そのどれもが本質ではありません。正体はもっと恐ろしいものです。(中略)
いじめの正体とは空気です。特に右から左,左から右へと全員で移動するこの国では空気という魔物の持つ力は実に強大です。この敵の前では法ですら無力かもしれません。
―― ドラマ『リーガルハイ』より
ここでいじめの話を出したのは,これと同様の構造が経済失政の背後にあるためだ(公正論争)。このことは第4部 Part 1で説明する。
③ 創発と自己組織化の違い
これまで創発と自己組織化をほとんど同じような意味で使ってきた。経済現象では両方セットで表れることが多いため,両者の違いが曖昧であったとしても今後の説明がわからなくなることはない。また,経済の文脈に限らず,創発と自己組織化を同じような意味で使っている者は非常に多い。
もっとも,両者は確率の議論をする場合に重要な差異が現れる。以降ではそのことについて説明するが,やや専門的な議論となるため,この部分は読み飛ばしても構わない。
A:創発ではない自己組織化
自己組織化は何らかの方向に組織化されるプロセスを指す言葉として用いられる。そのため,創発ではない自己組織化の例としては増幅回路などが挙げられる。マイクとスピーカーが互いに音を拾い合ってしまうハウリングなどもこのひとつといえる。
もっとも,上記のような構造を「複雑系」と呼ぶ者は少ない。このように,自己組織化のなかには比較的単純な数学的記述が可能なプロセスなども含まれている。
B:自己組織化ではない創発
一方,自己組織化ではない創発の例としては気体の分子の運動などが挙げられる。気体の分子は全体の状況(他の分子の影響)に応じて複雑な動きをする。しかし,分子は常にそうした動きを続けており,何らかの方向に組織化されているわけではない。
このような場合,マクロの現象は統計力学によって表現することができる。つまり,気体の分子の動きを確率的にランダムな動き(ブラウン運動など)と考えることで,いくつかの有益な分析が可能になる。
C:自己組織化と確率モデル
しかし,創発が自己組織化を含む場合,気体の分子の動きで用いたような確率的表現はほとんど意味をなさなくなる。この問題を経済モデルの例で考える。前章では,ミクロ経済モデルに完全合理性が仮定されていることを取り上げた。この仮定に対し,
人間はいつもそんなに合理的な行動をできるはずがない!そうだ,8割ぐらい合理的な行動をするようにして,「たまに間違える」みたいな仮定を入れればいいんだ!
という変更(確率的合理性)は一見有効に感じられるが,本質的な問題の解決にならない。
- ミクロ経済学的アプローチ
- 非現実的なミクロ経済学の前提(第8章 - 3)
たとえば,状況Xに対し,意思決定Yが存在した場合,すべての人が合理的な意思決定をするとは以下のような状態のことを指す。
一方,「たまに間違える」という仮定を入れた場合,以下のような状態になる。
確かに合理的意思決定からは外れているが,平均すれば概ね合理的意思決定となることがわかるだろう。すなわち,このケースであれば確率収束(大数の法則)によって全体の傾向は計算可能であり,その結果は完全合理性の場合とほとんど変わらない。
しかし,自己組織化が存在する場合,大数の法則は適用できない。たとえば,以下のような状態(状況Xが一定以上になると非合理的意思決定が増加するケース)がそれにあたる。
もちろん,上記のような現象を確率モデルで表現できないわけではない。しかし,仮に表現できたとしても「そうなることもあり得る」程度の結論しか導出できず,変化の性質を説明したり,変化の兆候を予測したりすることはできない。このように,完全合理性の仮定を確率的に緩めるだけでは,全体の挙動が予測不能なケースを説明できない。
個人の行動が確率的であろうと,全体の傾向は大数の法則で捕捉できる。逆にいえば,自己組織化が重大な問題である場合,この手のモデル変更はほとんど意味をなさない。
2.還元主義
これまで複雑系の特徴について述べてきた。次にこれらの考え方と対極にある還元主義について説明する。
- 還元主義
- 複雑な全体を単純な個別要素に分解して理解する方法。
還元主義はデカルトによって本格的に導入され,科学の発展に大きく寄与したとされる。
要素還元主義は,デカルトが考えたように,複雑な対象を単純な構成要素に分解し,複雑さを除去することによって,自然の明晰な認識に至りうるとする。(中略)機械論的自然観と要素還元主義,決定論と還元論は,近代科学を推し進めてきた車の両輪であった。
―― 小林道憲『複雑系の哲学』
たとえば,生物学の分類方法などはそのひとつといえるだろう。
しかし,還元主義は相互作用を十分に表現することができない。たとえば,医学は
- 精神と肉体を分ける(心身二元論)
- 肉体を一種の機械のようなものと考える
- 「故障」の原因を探る
という還元主義的なプロセスを採用することで発達してきた側面がある。
一方で,肉体と精神が互いに影響を与え合うということは近代以前からよく知られた事実であった。これについてはデカルト自身も明確な回答を出せていない[2]。そして,要素間の相互作用が大きくなるほど還元主義は機能しなくなる。創発はその代表といえるだろう。
そんなの当たり前じゃん。相互作用がある以上,還元主義が完璧だなんて誰も思わないよね。
これまで述べてきた通り,複雑系は自然現象・社会現象の随所にみられる。言い換えれば,還元主義によってすべてを説明できるものは世の中にほとんど存在しない。
それでは,なぜ還元主義的なアプローチは現在も多用されているのだろうか。その理由は
還元主義がわかりやすいから
である。そもそも人間は複雑なものを複雑なまま認識できない。それゆえ単純な要素に分解して理解しようとする。このプロセスが科学の発達に大きく寄与してきたことは明白だ。
しかし,それは「わかりやすい」というだけであって「正しい」わけではない。実際,バブル崩壊以降の日本ではデフレ不況をマクロ現象として見ることができず,誤った政策を連発してきた(全体-個別の誤謬)。
このように,還元主義はときに誤謬を助長するツールともなり得る。以降ではその傾向があるものとして,
- ビジネスフレームワーク
- 社会契約説
の2つを取り上げる。
① ビジネスフレームワーク
コンサルティング会社などで用いられるとされるビジネスフレームワークは全体と個別を分解・統合する手法そのものだ。
これらは還元主義的アプローチであり,厳密にいえば,各要素が互いに独立であるときしか成立しない。
ちょっと待て!それならこのサイトの第1部,第2部,第3部という構成も還元主義じゃないか!
指摘の通り,問題解決プロセスもフレームワークのひとつである。
さらに言えば,これまで用いてきた国民経済計算の図も還元主義に他ならない[3]。
すなわち,これらの表現は「厳密にいえば」正しくない。
ただし,いずれも近似としては有効である。コンサルタントがフレームワークを使う理由は,ビジネスにおいてスピードやわかりやすさが要請されるからだ。もちろん,それは精密さを一部犠牲にしたものである。このサイトで一部に還元主義的なアプローチが用いられているのもわかりやすさを重視しているためであって,その点では精密さに欠けている。
このため,ビジネスフレームワークについても(第8章の冒頭で述べた)誤った楽観論と誤った悲観論の両方を見ることができる。
A:誤った楽観論
フレームワークで全体を個別の要素に分解すれば,どんな複雑な現象も理解できる。我々が求めているのはこのような論理的思考のできる人材だ。
「論理的思考」をうたったビジネス書籍のなかには,還元主義的なアプローチで何でも解決できるかのように書いてあるものもあるが,これはあくまで近似でしかない。場合によっては全体-個別の誤謬を引き起こすことになる。
B:誤った悲観論
ビジネスで使われるフレームワークは複雑性の本質である関係性を無視している。これが社会に通用すると思っているなんて,おめでたい人たちだ。
この手の批判は学者サイドから行われる場合が多い。確かに,学術界(アカデミック)では実務界(ビジネス)以上に精密さが要求されやすい一方,精密さを犠牲にしたスピードが求められることは稀であり,上記のような考え方に傾斜しやすい土壌がある。
しかし,フレームワークが近似として有効である以上,「無意味」という結論にはならない。実際,学術においても階層構造による説明はみられるが,それは還元主義的なアプローチを適用しても大きな問題が生じないからである(準階層構造)。
異なる部分に属する階部分は,ただ集合的に相互作用を持つに過ぎない。したがって,それらの相互作用の細かいことは,無視できるのである。二つの大きな分子のあいだの相互作用を研究する場合,一般に,一方の分子に属する原子の核と他方の分子に属する原子の郭図の相互作用について,こまかい点まで考慮に入れる必要はない。
―― H.A.サイモン『システムの科学』
また,フレームワークの持つわかりやすさという部分は学術においても重要な意味を持つ。これについては後で説明することとする。
以上をまとめると,フレームワークは有効な近似となり得るが,近似でしかない。この認識に偏りが生じると,近似のツールは誤謬を助長するツールに変わってしまうだろう。
② 社会契約説
社会契約説は社会を個人の集積とみなしており(方法論的個人主義),還元主義と非常に近い関係にある[4]。
- 社会契約説
- 社会の構成単位を個人とし,各個人が契約を結ぶことによって社会が成立するという考え方。国家の正当性を個人間の契約に求める学説。
社会契約説は個人からスタートして社会を説明する。しかし,個人間の関係が複雑になるほど社会は「単純な個人の合計」から乖離しやすくなる。
特にホッブズの社会契約説はミクロ経済学的アプローチの範囲ですら疑いの目が向けられている。別ページで説明するが,合理的個人を想定し,社会契約説と同様に「個人からスタートして社会を説明する」という形をとった場合であっても,社会の意思(集団の意思)は個人の意思の集積から乖離する場合がある(アローの不可能性定理)。少なくとも,ホッブズの社会契約説でイメージされるような「個人が集まって大きな個人のようなもの(国)ができる」という形にはならない。
- ※ ホッブズ『リバイアサン』の挿絵。巨大な人の身体が小さな人々の集合によって構成されている。
ホッブズは絶対君主を,社会契約を結ぶ個人の総和と規定した。この考えは,ガリレオの重ね合わせや線形性の力学原理を応用したものである。ホッブズの著書の扉ページには,リヴァイアサン(Lwviathan)の体が膨大な数の人々の複雑系として描かれ,線形性を持った彼の政治原理が表現されている。
―― K.マインツァー『複雑系思考』
以上のように,社会契約説は社会を説明する仮説のひとつでしかない。むしろ関係を重視する解釈が社会学の主流と考えるならば,要素を重視する社会契約説は社会学的に亜流である[5]。しかし,中学・高校の教科書に記載されるほぼ唯一の社会理論であるため,その認知度は非常に高く,このことが社会の見方を偏向させている可能性がある。
前章で述べた通り,個別の要素で全体を説明する手法には限界がある。国民が社会契約説を「ひとつの仮説でしかない」と認識していなければ,社会は容易に全体-個別の誤謬に陥るだろう。
3.巨大予測システムの陥穽
以上より,実際の現象(複雑系)と分析手法(還元主義)の間にはギャップがあり,そのことが還元主義の
- 長所:わかりやすく,有効な近似となる
- 短所:現象のすべてを説明することはできない
という2つの特徴となって表れている。
そして,創発のような複雑な現象に対しては,有効な近似にすらならない。それゆえ,経済現象(複雑系)を個別の要素に分解して説明する手法はすぐに限界に行き当たる。
これに対して,おそらく最初に思いつくであろう解決策がビッグデータなどによるシミュレーションであろう。こうした手法であれば,複雑なものは複雑なまま扱われる。具体的には以下のような気象予測モデルのようなものがそれに該当する。
- ※ 上記は気象庁がHPに掲載しているイメージ図である。
経済現象もこれと同様に,人々の行動とその関係をセットすれば,巨大な予測システムを構築できそうに思われる。しかし,結論からいえば,そうはならない。以降ではその理由について説明する。
① 予測と知識
まず,気象現象と経済現象で共通している部分を確認する。上で述べた通り,両者は複雑系であり,自己組織化を引き起こすシステムである。
さらに,複雑系における自己組織化ではバタフライ効果が生じるため,その予測は限定的となる。したがって,気象現象や経済現象は,何度か例に出した
- 300年後の日食日時を正確に予測できる
といったものと根本的に性格が異なる。これは既に述べた通りだ。
- ※ 他に複雑系の予測でよく取り上げられるものとして地震予測がある。地震は複雑系における自己組織化にあたるが,その予測が可能なのかどうかは今なお学界で意見が分かれている。
もっとも,バタフライ効果があるにせよ,コンピュータシミュレーションを用いれば,ある程度の予測を行うことは可能である。ただし,ここで注意したいのは,それによって得られるものはあくまで「予測」であって「知識」ではないということだ。
還元主義の長所が「わかりやすさ」であったよう,複雑な全体を単純な個別に分割する方法は人間の理解を助ける。しかし,巨大システムによる予測はそうならない。
たとえば,金利,為替,物価などあらゆる情報を入力して翌日の株価暴落を予測できたとする。しかし,それだけでは「なぜそうなるのか」ということは謎のままだ。巨大予測システムは実質的にブラックボックスであり,知識を提供してくれるものではない。
そんなことないだろ!ビッグデータ解析によって何がどの程度影響しているのかということは分析できるはずだ!
もし明快に分析できるケースがあるならば,それは「あまり複雑ではない現象」ということになるだろう。たとえば,前述の株価予測において
株価の暴落は9割以上が金利変動で説明できる
という分析結果となるならば,それは
金利によって株価を説明するような単純なモデルで近似解を導出できた
ということを意味する。巨大システムでのシミュレーションが必要になるのは単純なモデルで予測できないからだ。しかし,そのようなケースにおいては,当然ながら,明快な分析結果も提示されない。
② 予測モデルの変数と知識の関係
もっとも,システムが知識を提供してくれなくても問題ないと考える人は多いだろう。
知識ってそんなに大事?将来の経済状況をそれなりに予測してくれるシステムがあれば,その中身がどうなってるかなんて,割とどうでもいいんじゃないの?
確かに,天気予報のシステムの中身がどうなっているかとは別に,天気予報それ自体は現実の役に立っている。それならば,経済予測も,そのシステムの構造にかかわらず,ある程度の予測ができるのならば,役に立つのではないかと思われる。しかし,経済現象の場合,知識なき予測はほとんど役に立たない。これは自然科学と社会科学の重要な違いでもある。
たとえば,天気予報の場合,去年のデータを使ってシミュレーションを行い,そこにある程度の妥当性があれば,人々は
そのシミュレーションモデルは今後の天気を予測するうえでも役に立つ
と考えるだろう。これは,天気を予測するための変数(地形,気温,運動量など)が今後も変化しないでと予想されるためだ。
しかし,マクロ経済など社会科学で扱う現象には人間の意思が介在する。人間の意思決定には無限の可能性があり,それゆえ変数を十分に特定することができない。なお,ここでいう「無限の可能性」とは比喩的な表現ではなく,人工知能の分野で議論されるフレーム問題のことを指している。このことを(経済モデルでの説明が最も難しいとされる)労働選択のケースで考える。
A:労働選択と関係のある変数
ミクロ経済学などにおいて,労働は(最終的に物やサービスを手に入れるための)手段とみなされていることが多い。この場合,労働を決定するのは,
- 賃金
- 労働時間(時間当たり不効用)
などになる。
しかし,現実に職業を選択する場合には,
- その仕事が楽しそうか,やりがいがあるか
- 職場が家からどのくらい離れているか
- 次転職する場合に有利になるのか
といった要素が重視されることも珍しくない。さらに言えば,これ以外にも職業を選択するための要素は無数にある。実際,様々な変数を列挙したところで,
それでは,あなたはこの条件さえ満たせれば,どんな仕事でもやるということですね?
と聞かれれば皆不安になるだろう。いくら条件がよくても,怪しい仕事や良心の痛む仕事はやりたくない。しかし,「何をもって怪しいとするか」「どうなると良心が痛むのか」といった変数を定義しようとすれば,膨大な量になる。これだけでも,労働選択をモデル化することが難しいとわかる。
B:労働選択と関係のない変数
しかし,労働選択をモデル化するうえでそれ以上に重要となるのは,
- 現在,アフリカに何頭のゾウがいるか
というような要素である。おそらく,ゾウが何頭いるかということは,ほとんどの人にとって職業選択と関係ない。しかし,なぜ関係ないといえるのだろうか。これが人工知能の分野で最大の難問とされるフレーム問題である。
- フレーム問題
- 有限の情報処理能力しか与えられていない場合,現実の問題(無限の可能性がある)に対応することはできないという問題。
人間の意思決定に「何が影響を与えるか」と考えた場合,可能性は有限になりそうな気がする。しかし,「何が影響を与えないか」と考えた場合,変数の数は無限に増加する。おそらく,多くの人は
いや,関係ない変数なんだからモデルに入れなきゃいいだけじゃん
と思うだろう。しかし,人が「関係ないものを除外する」ということができるのは知識があるからだ。知識を提供しない巨大予測モデルではこの問題に対処することができない。
③ 複雑な経済モデルの問題点
ここで経済現象(社会科学)と気象現象(自然科学)の決定的な差が明らかになる。社会科学のモデルには人間の意思決定が組み込まれるため,
社会科学モデル:ほとんど無限の変数が存在する
という壁に衝突する。それゆえ,社会科学の予測モデルでは常に
- 状況に合わせて必要な変数をモデルに組み込む
- 状況に合わせて不要な変数をモデルから排除する
という改良作業が要請されることになるが,この過程で知識が必要になる。したがって,社会科学の場合,「知識」が提供されなければ「予測」それ自体ができなくなるという問題が生じることになる。
たとえば,「アメリカの溺死者数を予測する」という(人間の意思が介在するような)予測システムの構築を考える。溺死者数を予測するコンピュータシステムに,
- ニコラス・ケイジがどれだけ映画に出演しているか
という変数が投入データとして組み込まれていたら,どう思うだろうか。大半の人が「関係のない変数」という判断を下すだろう。
しかし,ニコラス・ケイジの映画出演数とアメリカにおけるプールでの溺死者数には強い相関が確認されている。
もっとも,これを見ても「関係のない変数」という認識を改める人は少ないだろう。両者に大きな因果関係があるとは想定できず,ほとんどの人は偶然と判断するはずだ。
しかし,それが偶然だったとしても,溺死者数の予測システムにニコラス・ケイジの映画出演数という変数を組み込んでモデルを改良すれば,予測精度は上昇する可能性がある。したがって,
予測精度の向上とモデルの妥当性は必ずしも一致しない
ということになる。改良の適切さを判断するのは常に知識であって,予測の結果ではない。
経済モデルに話を戻せば,その妥当性は従来の経済モデル(単純なモデル)によって検証されることになる。たとえば,仕事のプレゼンや学校のレポートで「○○政策の経済効果は××兆円」というような試算結果を引用するような場合を想像してほしい。試算を行った研究者に「この結果はどのように出されたのか」と尋ねたところ,
そうですね,上野動物園にいる猿の平均年齢と不二家の最新のケーキの糖度から経済効果を試算しています。何の関係があるかはわかりませんが,前の政策の経済効果はこのモデルで非常に近い値が出ました。
と言われたら,それを掲載しようと思うだろうか。おそらく,その数値の正当性を疑うはずだ。つまり,巨大シミュレーションシステムによる予測は知識(従来の経済モデル)の範囲内でしか機能しない。
しかし,究極的には,それらのモデルによって得られる結果は,紙と鉛筆のモデルによって動機付けられ,正当化できる限りにおいて信頼できるものになる。下地となる説明が透明で直感的に理解できない限り――シンプルな結果を生み出すシンプルなモデルが存在しない限り――複雑性それ自体は,少しだけ詳細という以上の何ものももたらさない。
―― D.ロドリック『エコノミクス・ルール』
4.マクロ経済学的アプローチ
これまでの議論をまとめると,複雑系の表現においては,それぞれ
- 還元主義:ほとんど役に立たたない
- 巨大ミュレーション:実質的にブラックボックス
という問題があることが明らかになった。こうした問題に対処する方法のひとつが
全体から大まかな関係や傾向を抽出し,その組み合わせで表現する
というアプローチである。これがマクロ経済学の発想だ。
マクロ経済学では,経済全体を個別取引の集合としてとらえず,全体そのものから,
- 所得が増えると消費が増える
- 物価が上がると失業率が下がる
- 金利が上がると事業投資が減る
といった傾向を抽出し,その組み合わせで経済現象を把握する(構造方程式モデル)。したがって,マクロ経済モデルは経済を関係の束(数式のセット)として表現する。たとえば,以下は公務員試験等に出てくる閉鎖経済モデルだ。
こうしたマクロ経済学モデルには,よく以下のような批判がなされている。
複雑な経済現象を数式で表せると思っている経済学者はバカしかいない。ましてや初等レベルの単純な経済モデルなんて何の役にも立たない。
確かに,経済は「複雑系」なのだから,数本の式(関係の束)で全体像を表すという試みは無謀に見える。しかし,これはマクロ経済モデルに対する誤解である。上記が示しているのは,大まかな関係だけであり,もとよりすべてを表そうとしているわけではない。
その意味で,マクロ経済モデルは還元主義と同様,近似でしかない。ただし,還元主義と異なり,マクロ経済全体をミクロの意思決定に分解して表現しているわけではない。創発の例として挙げた脳の構造についていえば,両者のアプローチの違いは,
- 還元主義:脳(全体)を神経細胞(個別)の集合として考える
- マクロ経済学:脳(全体)の性質をいくつか取り出して考える
ということになる。
① 知識の水平的蓄積
マクロ経済モデルは
経済をある特定の側面で切り取ったときの近似
でしかない。つまり,そのモデルが適用できるのは特定の状況に合致している場合だけということになる。
経済学では,状況がすべてなのだ。ある状況において正しいことは,別の状況においても正しいものである必要はない。競争的な市場もあれば,そうでない市場もある。(中略)多数のモデルを当てにすることは,モデルの不適切さを示しているのではなく,社会生活における偶有性を反映している。
―― ダニ・ロドリック『エコノミクス・ルール』
上記の特徴は(人間の意思決定が介在するという点で)社会科学全般に当てはまる。これは自然科学の知識構造と対照的である。たとえば,ニュートン力学がアインシュタイン力学(相対性理論)にとって代わられたよう,自然科学では以前の理論がより優れた理論へと昇華されて発展する(知識の垂直的蓄積)。
一方,社会科学は多数の「特定の状況」を総合することで発展する(知識の水平的蓄積)。たとえば,宗教社会学は社会を宗教という側面で切り取るとどう見えるかについて論じているのであって,宗教で社会のすべてを説明できると論じているわけではない。複雑な社会を把握しようとすれば,宗教のみならず,歴史,言語,家族形態など様々な切り口から検証することが必要になるはずだ。
知識 | 発展経路 | |
---|---|---|
自然科学 | 垂直的蓄積 | より普遍的な原理 |
社会科学 | 水平的蓄積 | より多面的な見方 |
自然科学分野におけるこれらの例のように,理論には全般的かつ普遍的な妥当性があるものと考えられている。(中略)しかし,経済学のモデルは違う。経済学のモデルは,状況によって変わるものであり,ほぼ無限の多様性がある。
―― ダニ・ロドリック『エコノミクス・ルール』
したがって,社会を分析するうえで重要なのは多様な視点である。普遍的な理論を夢想することは,偏った見方の原因にしかならない。
言い換えれば,間違っているのは社会科学の理論そのものではなく,理論の使い方である可能性が高い。社会科学は特定の状況における近似でしかない。おかしな方法で近似すれば,おかしな結果になるのは当然のことといえる。
- ミクロ経済学的アプローチ
- 経済学に対する「仮定が単純化されている」という批判の間違い(第8章 - 3)
なお,経済現象の複雑性(ミクロとマクロの断裂)を認識し,最初にマクロ経済学的アプローチを体系化したのはJ.M.ケインズとされる。ケインズは(これまで当サイトが述べてきたように)マクロ経済学をいくつもある視点のうちのひとつとして位置付けていた。
第1に,ケインズ自身は数学を専攻していたが,自身の経済理論を厳密な数学で表現することに興味はないと明言している。それよりも,より単純化された根本的な構造をつかむことの方が重要だと考えていた[6]。もっとも,その後のケインズ経済学が数理的な手法を重視していったことからもわかるよう,ケインズの価値観はケインズ経済学に継承されていない。
ケインズ自身は,高度な数学の訓練を受けていたにもかかわらず,いや,それゆえにと言った方がいいかもしれないが,統計手段を使って経済を定量化する試みを,冷ややかな目で見ていた。
―― P.A.オムロッド『バタフライ・エコノミクス―複雑系で読み解く社会と経済の動き』
第2に,ケインズは偉大な経済学者として知られているが,経済学に対してそれほど期待していなかった。たとえば,『孫たちの経済的可能性』というエッセイでは,「経済学者が歯医者と同程度に謙虚で有能になれば,こんなに素晴らしいことはないだろう」と述べている。巨大な経済モデルですべてを表そうとする考えには批判的だったと考えられる。
しかし,経済学は数理モデルによって統一理論体系を構築しようとする方向に進んでいった(この過程でミクロ経済学とマクロ経済学も統合されるようになる)。その結果,多様な視点は取り払われ,金融危機のシグナルを見落としてしまうことにつながった(リーマンショック)。この問題はPart 2で詳しく説明する。
- 経済学の問題点
- リーマンショック前の経済学は新自由主義経済学という特定の切り取り方に偏っていた(第3部 Part2 第11章 - 3)
② 閉鎖的制約条件
以上より,マクロ経済モデルには,
- 経済を関係の束(数式のセット)で表す
- その表し方は学派(切り取り方)によって異なる
という特徴がある。この「切り取り方」は前提にあたるため,論理の外にある。
したがって,学派の違いは論理的な間違いによって生じているわけではない。
- 学派論争の構図
- なぜ学派の違いが生じるのか(第3部 Part2 第2章 - 1)
一方,論理内でのエラーはいかなる学派においてもルール違反になる(ロジックエラー)。この代表が閉鎖的制約条件からの逸脱だ。閉鎖的制約条件とは,具体的には以下のようなものを指す。
- 総生産 = 総所得 = 総支出(三面等価の原則)
- 債権総額 = 債務総額
- 人口 = 就業者 + 失業者 + 非労働力人口
こんなの当たり前でしょ。債権と債務なんて同じものを別の方向から見ただけなんだし。
確かに,上記の関係が示していることは単なる論理構造でしかないため,「当たり前」といえる。しかし,マクロ経済を論じるうえで,このことは意識して気を付けていないと見落としてしまうことが多い。その理由は,第2章や第8章で示した通り,個人には
ミクロの経済主体である家計・企業の視点で見てしまいがち
という性質があるからだ。
- 直観とずれる経済政策
- 政府と民間の動きは逆になる(第2章 - 2)
- 非線形性とミクロ経済学
- ミクロとマクロの断裂について(第8章)
ミクロの主体でみれば,家計の所得と支出が同額になることはほとんどないし,企業の債務と債権が同額になることもほとんどない。しかし,マクロ経済においてこれらは同額になる。閉鎖的制約条件からの逸脱はきわめて初歩的な全体-個別の誤謬である。第10章ではこの典型である緊縮財政について説明する。
- ^1社会学にはいくつかの潮流がある。当初,社会学は哲学,政治学,経済学などを統合する学問として発達したが(総合社会学),他学問の切り貼りで実態がないという批判があった。これに対し,G.ジンメルは関係の形式を中心に据えた,他の学問にはない個別科学としての社会学を確立した(形式社会学)。本ページを含め,当サイトでは形式社会学のことを指して,単に「社会学」と述べている場合がある。
- ^2心身二元論に対する批判は当時から存在した。デカルト自身も肉体と精神の間に何の関係もないとは考えてはいなかったため,脳の内部にある松果腺という器官で両者が結びついていると強引に結論付けた。
- ^3たとえば,基礎的な経済学においては民間需要の項目を消費と投資に分けたうえで,投資が金利の関数であるという形でモデルが組まれている。しかし,実際には消費も金利動向の影響を受けることが知られており,これまで述べてきたような単純な分割方法は近似にしかならない。
- ^4社会を個人の集積とする考え方は方法論的個人主義と呼ばれ,還元主義はその極端なケースに該当する(あるのは個人のみで「社会全体」は存在しない)。
- ^5池田大臣(甲南女子大学教授)『甲南女子大学研究紀要 人間科学編「創発性から”多様実現性“へ――「社会と個人」の新しい関係性を構想する」』より。池田教授は社会学の主流が「方法論的全体論・創発主義」であるにもかかわらず,ホッブズの社会契約説を源流とする「方法論的個人主義・還元主義」は現代においても一定の訴求力を有していると述べている。