第3部 - 1:政府失政と3つの誤謬(全体-個別の誤謬)

Theme 3:デフレ対策の歴史

7章 橋本政権と緊縮不況

前章ではデフレ対策を行った政権について説明した。これとは逆に,第7章ではデフレ促進策(経済失政)を行ってしまった橋本政権について説明する。

1.経済失政を行った政権

デフレ対策を講じた4つの政権の顛末は以下のようなものであった。

政権 期間 結末
宮澤政権 91年11月~93年8月 政権交代
小渕政権 98年7月~00年4月 死亡
麻生政権 08年9月~09年9月 政権交代
第2次安倍政権 12年12月~20年9月 政策の変節

宮澤政権はバブル崩壊に対して,麻生政権はリーマンショックに対して,教科書通りのデフレ対策を実行した。しかし,その直感とずれる政策(公共事業拡張など)によって,国民の手で引きずりおろされている(第4部で詳述)。

その後の八党連立政権や民主党政権はそれぞれ前政権の政策を批判して成立しているため,デフレ対策どころか,それと逆行する政策が次々と立案された。ただし,政策実行力が欠如していたため,その悪影響は限定的であった

A:細川政権(八党連立政権)

  • 国民福祉税導入:実質的に消費税3%から7%への引き上げ → 頓挫

B:鳩山政権・菅政権(民主党政権)

  • 事業仕分け:3兆円の公共事業削減 → 目標未達(1.7兆円にとどまる)

提示した政策に問題があったとしても,それが実行されなければ被害はない。したがって,最も危険なのは,

政策実行能力のある政権が間違ったコンセプトを掲げている

という場合である。

戦後最悪の経済政策で国民を苦しめたのは消費税を増税した安倍政権だ!

悪夢のような民主党政権のせいで経済がめちゃくちゃにされたんだ!

このような論争は散見されるが,前述の評価軸で判断するならば,戦後最悪の経済失政を行ったのは安倍政権でも民主党政権でもなく橋本政権だろう。

特に第2次橋本内閣で自民党単独政権となってからは,その強いリーダーシップのもと,次々とデフレ促進策が実行された。以降では,橋本政権の経済政策について概観する。

小泉政権の評価

なお,上記の枠組みならば小泉政権をイメージする人も多いだろう。

政策実行力があって,公共事業を削減して,「改革」を重視したっていったら,橋本政権より小泉政権じゃない?何で橋本政権がデフレ政策の代表的な政権なの?

指摘の通り,小泉政権では,橋本政権と同様,公共事業が削られている。

ただし,小泉政権では量的緩和(2001年3月)が初めて実行されるなど,金融政策についてはきわめて緩和的であった。

また,税制については定率減税などが廃止されたものの,IT設備投資減税住宅投資減税が行われており,増税に傾斜していたわけではない[1]

もっとも,小泉政権の政策にはいくつか重大な問題があった。そのことはPart 2で改めて説明する。

  • 小泉構造改革
    小泉政権が行ったのは「経済対策」ではない(第3部 Part2 第10章)

2.橋本六大改革

橋本政権では,

  • 消費税増税
  • 公共事業削減
  • 公務員削減方針の決定

などが行われた。

なんでこんな端から端まで間違った政策が行われたんだ!政治家はバカしかいないのか!

問題の本質は当時の主な政治テーマが景気ではなく改革に置かれたことであった。上記の政策は景気回復を目的としたものではなく,すべて改革の一環として行われたものである。

六大改革 内容
行政改革 中央省庁再編
財政構造改革 緊縮財政
社会保障構造改革 医療制度改革
経済構造改革 グローバル化
金融システム改革 金融ビッグバン
教育改革 教育改革プログラム

なお,このような「改革優先」こそ,典型的な経済失政のパターンにあたる(Part 2および第4部で詳述)。

① 過程:改革の加速

もっとも,景気より改革を重視する政治方針自体は橋本政権で急に始まったわけではない。その流れは八党連立政権から始まったものである(その流れで宮澤首相は失脚した)。

しかし,8党も連立していて首相がリーダーシップを発揮できるはずがなく,実行された改革はごくわずかなものにとどまった。これはその後の自社さ政権も同様である。

一方,第2次橋本内閣になって急激に改革が進んだのは自民党単独政権となったためだ。そのため,橋本六大改革の内容は八党連立政権・自社さ政権で定められた方針から大きく逸脱したものだったわけではない。

② 評価:景気悪化懸念

改革に対する是非は別として,少なくともその内容がデフレ対策と逆行するものであることは明らかだった。

六大改革 内容 弊害
行政改革 中央省庁再編 公務員削減方針
財政構造改革 緊縮財政 増税,公共事業削減
社会保障構造改革 医療制度改革 社会保険料負担増
経済構造改革 グローバル化
金融システム改革 金融ビッグバン 金融機関救済見送り
教育改革 教育改革プログラム

改革に熱狂する国内と異なり,海外からは既にその危険性が指摘されていた。たとえば,当時アメリカの財務長官であったR.E.ルービン氏は橋本首相がその警告を全く受け入れなかったと述懐している。

1997年4月の出来事はいまも記憶に鮮やかに残っている。橋本龍太郎総理が就任後初めてクリントン大統領を訪問した時のことだ。(中略)また橋本総理は,同席していた「ルービンとサマーズ」が公の場であれこれ言及しているが,すべて事実に反する,と苦情を述べた

結局,日本の景気回復を見ないまま,国際経済危機は何とか収まった。しかし,日本経済のぜい弱さが回復の足を引っ張り,アジアの経済不安を増大させたという見識は正しかったと,いまでも信じている。

―― R.E.ルービン『ルービン回顧録』

上記に登場する「サマーズ」とは当時の財務副長官だったL.H.サマーズ教授(ハーバード大学)のことである。学者出身で世界銀行のチーフエコノミストも務めた人物だが,彼もまた日本の政策が間違いであることを当時から指摘していた。

サマーズ財務副長官予定通り消費税を引き上げれば,日本経済は不況に逆戻りしてしまうと繰り返し日本政府に警告した。(中略)残念ながら,サマーズ副長官の予測は的中した。

―― ガーディアン紙(2013年9月13日,J.フランケル)

両氏とも,どちらかといえば(当時は)財政拡張に批判的だった。しかし,そうした人々の目から見ても,橋本六大改革は弊害の方が大きいと判断されていた。

③ 結果:緊縮不況

橋本六大改革の結果,国内景気は悪化し,緊縮不況へと突入した。バブル崩壊については以下のように表現される場合があるが,このイメージはすべて緊縮不況の頃のものである。

バブルが崩壊すると,大手金融機関が次々と破綻し,倒産件数も過去最高を更新。失業者が街にあふれた。これが「失われた10年」の日本だった。

株価のピークが1989年末であるのに対し,大手銀行の破綻が始まったのは1997年以降である。

大手金融機関の破綻
1997年11月 北海道拓殖銀行破綻
1997年11月 山一證券破綻
1998年10月 日本長期信用銀行破綻
1998年12月 日本債券信用銀行破綻

金融機関の連鎖破綻で金融危機としての色彩が強まると,失業者は急増し,それと連動する形で自殺者も急増した。

なお,当時は

日本も海外のようにダメな銀行は潰すべきだ

という意見が大勢を占めており,金融危機に対してはほとんど無策を決め込んだ。改革推進の筆頭であった竹中平蔵元大臣(当時は慶應義塾大学教授)にいたっては日債銀の救済に対してすら苦言を呈している。

本来,金融システムの救済にあたっては非効率な機関を整理するのが常道であるが,結果的には「潰すには大きすぎる」(too big to fail)という旧態依然たる基準によって,政府丸抱えの救済が行われた。政府丸抱えの方式は,明らかにビッグバンがよって立つ自助努力と競争の哲学に反するものである。要するに政府は,ビッグバンを控え国際的な反応も考慮しながら,無難な形の不良債権処理を選んだのである。一方,不良債権処理の進み方いかんでは,今後金融システム自由化の内容が後退することも懸念される。

―― 週間エコノミスト(1997年5月13日)

このように,金融危機の背景にも「改革優先」の弊害があったことがうかがえる。もっとも,大手銀行をそのまま破綻させるということは国際的には「常道」ではなく非常識である。たとえば,以下は当時のアメリカにおける銀行破綻処理に関する統計である。

閉鎖型(いわゆる「破綻」)で処理された銀行の規模は最大で預金総額113億ドルである。一方,橋本政権がそのまま破綻させた北海道拓殖銀行の預金は513億ドル(5.9兆円)であり[2],前代未聞の銀行破綻となった。

この銀行(注:北海道拓殖銀行)は――政府と中央銀行がその気になれば――救済できたかもしれないが,当時の橋本政権が世界にあるメッセージを発信したくて,破綻を認めてしまったのである。(中略)

改革志向の橋本政権は,拓銀をつぶすことによって,日本も腐った銀行を破綻させることができる,構造改革に真剣に取り組んでいる,と世界に知らしめたかったのである

―― リチャード・クー『デフレとバランスシート不況の経済学』

3.財政再建の失敗

特筆すべきは,橋本政権が景気回復より財政健全化(財政構造改革)を優先したにもかかわらず,財政健全化に失敗したことである。消費税増税は消費を減少させ,財政赤字を拡大させる結果となった。

緊縮財政は典型的な全体-個別の誤謬である。そのことは第10章で説明することとし,ここでは

  • 消費税増税によって,かえって財政は悪化した

という主張に対する3つの反論を検証する。

① 所得税・法人税減税の影響

最も多いのは所得税・法人税減税の影響を指摘するものである。

1997年に37.5%だった法人税は30%になった。所得税率も同様に引き下げられている。これを無視して消費税で税収が減ったというのは無茶苦茶。

この指摘は本質的に反論となっていない。所得税・法人税の減少は事実だが,そもそも消費税を増税したのは財政健全化が目的だった。しかし,日本の財政は何ら健全化していない。

仮に所得税・法人税の減少で財政が悪化するとわかっていたならば,「消費税を導入しない方がよい」という結論になるはずだ。消費税は手段であって目的ではない。

② 直接税依存解消説

上記の指摘とは別に,税収総額を一時的に減少させてでも消費税中心に切り替える必要があったという意見もある。

日本はこれ以上経済成長しないし,将来の高齢化も考えたら,97年の消費税増税は正解。所得税や法人税に頼ってたら大変なことになっていた。

確かに,消費税などの間接税には経済成長の影響を受けにくいという特性がある。

しかし,そもそも「経済成長しない」という前提が間違っている。第2部 Part 1で述べた通り,名目GDPが横ばいで推移している主要国は日本だけだ。日本が他の国と同程度の経済成長率・インフレ率であれば財政赤字がここまで拡大することもなかっただろう。

実際,日本の財政問題の原因は歳出増ではなく歳入減にある。したがって,最優先課題は経済成長(景気回復)になるはずだが,政府が消費税増税(財政構造改革)を優先したことはすでに述べた通りである。

なお,財政問題においては実質GDPではなく名目GDPの動きが決定的に重要になる。なぜなら,税率は名目GDPにかかるからだ。経済が実質ベースで成長していても,同率のデフレが生じれば税収が増加することはない。

  • 実質成長率1%+インフレ率-1%=名目成長率0%(税収変わらず)
  • 実質成長率0%+インフレ率3%=名目成長率3% (税収増)

したがって,財政面から見てもインフレ率を引き上げること(デフレ脱却)は重要な課題となる。

③ アジア通貨危機の影響

このほか税収減がアジア通貨危機の影響であるという指摘もある。当時の財務省はこの解釈を採用した。

反増税論者は1998年の税収落ち込みを語る際にアジア通貨危機については絶対に触れない。国際環境を無視した内向きの議論に終始している。

しかし,アジア通貨危機によって輸出(外需)が受けた影響は限定的だ(大きく見積もっても,危機前ピークからの減少は5兆円程度)。したがって,この説は多くの学者から疑問視されている。

一方,消費税によって消費(内需)は明確に悪影響を受けている。ピーク前の水準を回復したのは輸出よりも明らかに遅いうえ,平成不況の頃の消費増加ペースすら維持できていない。

そもそもアジア通貨危機の震源地(タイ,韓国,インドネシアなど)で日本のような長期停滞に苦しんだ国はひとつもない。このことは当時大蔵官僚であった高橋洋一教授(嘉悦大学)も指摘している。

すると大蔵省は御用学者を担いで,平成9年7月に起こった「アジア通貨危機」により経済が悪化したという見解を述べさせた。しかし,これは明らかに間違いだ。アジア通貨危機の震源地であるタイと韓国が,いずれもすぐに経済回復していることからも,日本の停滞は,他の国にはなかった消費税増税が原因であることが明らかだ。「絶対バレるから,この理屈はやめた方がいい」と助言したが……。結局,大蔵省は聞かなかった。

―― 高橋洋一『めった斬り平成経済史』

4.失政の責任と民主主義

バブル期の株価ピークが1989年末であったがことを考慮すれば,1997年6月から始まった緊縮不況は人災であったといっていい。

なるほど!今の日本経済がよくないのは橋本首相のせいなんだな!やっぱり自民党はダメだ!

しかし,橋本政権が景気より改革を優先したのは当時の世論がそれを望んだからである。

そもそも景気回復を重視した宮澤政権を引きずりおろし,政治改革を全面に掲げた八党連立政権を支持したのは日本国民と,それを誘導したマスメディアである[3]。また,当時の最大野党であった新進党も改革を訴えており,住宅専門金融機関への公的資金注入(デフレ対策)に対し,国会での座り込みで抵抗した。

加えて,第2部で述べた通り,学者エコノミストも大半が「デフレ説」ではなく「構造説」を唱え,デフレ対策ではなく構造改革を要求していた。

すなわち,国民,マスコミ,政治家,学者,誰もが「改革」を望んでいたのである。

橋本政権以降

橋本政権の後に成立した小渕政権は政策を大幅に転換し,財政再建よりも景気回復を重視すると明言した[4]。橋本政権の財政構造改革法は停止され(財政構造改革凍結法),積極財政が展開されたことは第6章で述べた通りである。

しかし,小渕財政が実現したのは奇跡的な幸運といっていい。実際,小渕首相が選ばれた2度の自民党総裁選(候補計5人)のなかで,財政拡張と金融緩和を訴えたのは小渕首相だけだったからだ。すなわち,小渕政権期においてもデフレ脱却を重視する勢力は依然として少数派だった

一方,失脚した橋本元首相は2001年に再び総裁選に出馬するが,そのときにHPで自身が行った過去の政策を謝罪している。なお,自身の経済失政を認めて反省した首相は戦後の歴史上橋本首相ただ一人だけであり,これは政治家として評価されるべき点だろう。

立候補のご挨拶に先立ち,まず,心からのお詫びを申し上げます。

現在,我が国は再び厳しい経済状況の下にあります。これは,私が内閣総理大臣の地位にありました時に,日本経済の実態を十分に把握しないまま,国の財政の健全化を急ぐあまり,財政再建のタイミングを早まったことが原点にあることを,率直に認めます。(中略)誠に申し訳ないと思っています。

―― 橋本龍太郎(平成13年自由民主党総裁選挙)
  • ^12003年までは法人税の政策減税などで減税寄り,2006年以降は定率減税廃止などで増税寄りとなっている。
  • ^2当時,多くの国民にとって銀行が破綻するということは予想外の事態であった。なお,1995年8月の兵庫銀行破綻が戦後はじめての銀行破綻である。
  • ^3破綻時の預金総額は5兆9,006億円。1997年7月平均1ドル=115円で計算。
  • ^4八党連立成立時,テレビ朝日において宮澤政権への計画的なイメージダウンが行われことが疑われた(椿事件)。詳しくは第4部で説明。
  • ^5年頭記者会見で「二兎追う者は一兎も得ず」と述べている。