第3部 - 2:政府失政と3つの誤謬(短期-長期の誤謬)

Theme 1:なぜデフレは放置されたのか

3章 労働市場改革の解釈

第3章では前章までの議論を労働市場に適用して考える。労働市場改善のプロセスについては第1部でも述べたが,ここではその前提が変わるとどのような変化が生じるのかについて説明する。

1.新古典派経済学の労働市場

これまでの議論を労働市場に当てはめて考える。そこでまずは,第1章で説明した

デフレと不況は無関係

という考え方が労働市場に適用されるとどうなるかを確認する。

① 賃金と雇用量の関係

まず,以下のような主張だが,これは誤謬にあたる。

1人あたりの賃金を上げると,労働者をたくさん雇用できなくなる。逆に労働者をたくさん雇用しようとすれば,一人あたりの賃金を下げざるを得ない。ゆえに,経済において賃金と雇用はトレードオフの関係にある。

上記は第1章で示した,

  • ①デフレで単価が下がっても,販売量は増えるから関係ない

に対応している。このことを,もう一度,数値をつかって説明する。

A:年収450万円のケース

賃金が高すぎて,失業者があふれている場合について考える。

企業が年収を450万円に設定すると,働きたい人400人に対し,200人しか雇うことができない。上の図は,それによって200人の失業者が生み出されてしまっていることを表している。

B:年収300万円のケース

しかし,市場メカニズムにしたがって,企業が年収を300万円まで引き下げれば,働きたい人は300人に減少する一方,300人全員を雇うことができるため,失業者はゼロとなる。これが労働市場に素朴な市場原理を適用した場合の例だ。

C:人件費総額引き下げのケース

ただし,このメカニズムは人件費総額が年間9億円で変わらないという前提を置いた場合の話である。現実には人件費総額が変動するため,雇用と賃金はトレードオフどころか,むしろ連動して動く

すなわち,年収を450万円から300万円に引き下げても,その分が製品の値下げに転化された場合,労働需要が(金額ベースで)減少するため,失業者は200人のまま変わらないことになる。

以上より,上記ツイート例はミクロの視点(個別企業)とマクロの視点(マクロ経済)を混同した全体-個別の誤謬といえる。

② OECDの対日審査

上記の事実を踏まえ,1994年にOECD(経済協力開発機構)がまとめた『雇用研究(Jobs Study)』という報告書について考える。

OECDの『雇用研究』によれば,

実質賃金が高くなると,失業者が増える

という指摘がなされている。

たとえば,インサイダー(注:既に雇用されている人)が実質賃金の水準を引き上げたがる傾向は,高失業に対する実質賃金の反応を鈍くする。したがって,増幅する循環的失業が任意の賃金水準へと調整されなければならない。しかし,循環的失業はアウトサイダー(注:失業者)の増加につながり,今度は構造的失業を増やすことになる。

―― OECD『雇用研究』

賃金と雇用はトレードオフではない!これは全体-個別の誤謬だ!OECDは間違っている!

こう思うかもしれないが,上記は必ずしも誤謬とはいえない。なぜなら,OECDが言及しているのは(名目)賃金ではなく,実質賃金だからだ。たとえば,賃金の引き下げ分が製品の値下げに転化された場合,実質的な賃金は下がっていないとみなされる。

つまり,OECDが言っているのは,

賃金が半分になっても周りのものの値段も半分になっているんでしょ?じゃあ,「実質」賃金は何も下がってないよね?なら失業者が減らないのも当たり前だよ。

ということだ。これは第1章で示した,

  • ②デフレで収益が下がっても,費用も下がるから関係ない

と同じロジックであり,新古典派経済学の考え方である。

なお,前述の『雇用研究』は1996年に『雇用戦略(Jobs Strategy)』へと再編され,OECDはこれに基づいて各国に政策変更を促していった。以下はその勧告の一部である。

  • 成長を促進し,適切な構造改革と持続可能な(つまり,物価を上昇させない成長を実現させるような)マクロ経済政策を策定すること
  • 地域や現場の条件,個々の労働者の生産性を反映した賃金決定を阻害している要因を取り除くことによって,(特に若年層の)賃金や労働費用をより柔軟にすること
  • 民間部門の雇用拡大を阻害している雇用保護規定を撤廃すること
  • 失業給付制度を改革し,労働市場の効率的な機能を阻害しないよう,社会的公平が達成されるようにすること

これらはいずれも構造説に基づく改革であって,デフレ経済からの脱却とは何の関係もない(事実,『雇用戦略』はデフレ対策について一切言及していない)。石水教授(京都大学)が指摘する通り,OECDの対日勧告は新古典派経済学の考え方が前提にある。

1996年には,日本経済の審査が行われ,日本の雇用慣行と雇用政策に対する提言が行われました。その内容は,新古典派経済学の労働市場論そのものであり,先の「雇用戦略」によって検討された事項を,具体的に日本経済に応用したものです。それは,まさに日本に構造改革を迫るものでした。

―― 石水喜夫『日本型雇用の真実』

2.失業に対する解釈

OECDが指摘する構造的失業とは新古典派経済学(および新自由主義経済学)で議論される失業の概念である。第2章で,

新古典派経済学:非自発的失業は存在しない(セイの法則)

と説明した(完全雇用を前提とした経済学)。

しかし,現実には失業者が存在している。これらは新古典派経済学において,基本的に理論との誤差として解釈されている。具体的には,

  • 転職市場が非効率なため,転職に時間がかかっている
  • 企業の求める人材と,求職者の希望する条件でミスマッチが起きている
  • おかしな労働慣行のせいで新規の雇用が妨害されている

という理由で失業を説明する。

一方,

  • 最終需要の減少が,労働需要の減少という形で波及して失業者が増えている(非自発的失業)

という考え方は存在しない。

① 新古典派経済学の失業

新古典派経済学における「失業」とは市場メカニズムがうまくはたらかないことで生じる誤差のことだ。したがって,その解決方法は

新古典派経済学:市場メカニズムを阻害する雇用慣行や労働法制の撤廃

という形になる。具体的には,

  • 労働者の賃金を引き上げるのではなく,最低賃金規制を撤廃して実質賃金を下げやすくする
  • 労働者の雇用を守るのではなく,解雇規制を撤廃して労働者を解雇しやすくする
  • 労働者の賃金引き上げや雇用維持を要求する労働組合の動きを抑える

などだ。上記のような政策が実行されると

市場原理主義者たちが立場の弱い失業者をいじめようとしている!

という批判が出てくるが,その批判は誤りである。なぜなら,上記の政策は失業者をいじめようとしているのではなく,むしろ失業問題を解決しようとして導入されるものだからだ。

つまり,問題の本質は失業者への優しさが足りないことにあるのではなく,

  • 新古典派経済学:市場メカニズムを阻害する雇用慣行や労働法制の撤廃

という前提にある。失業者の急増が景気の悪化(短期の問題)によるものならば,そこに構造改革(長期の解決策)を持ち込むことは短期-長期の誤謬に他ならない。

② ケインズ済学の失業

一方,ケインズ経済学の失業(非自発的失業)は第1部 Part 1で説明したとおりだ。賃金にはいくつかの理由で下方硬直性があるため,

ケインズ経済学:多数の失業者を抱えたままで市場が均衡する

という状態が生じる(古典派第2公準の否定)。

上の図において労働需要曲線が水平の部分では数量調整しか発生しないことになる。

学派 調整過程 労働需要調整
ケインズ経済学 数量調整 雇用増 リストラ
新古典派経済学 価格調整 賃上げ 賃下げ

失業者を抱えて均衡状態になるならば,失業問題が市場の内部で解決されることはない。言い換えれば,失業問題を解決するためには,財政政策や金融政策などにより,

ケインズ経済学:市場の外部から圧力をかけて労働需要を拡張する

という結論になる。

この考え方は第2章で説明したことと整合的である。

経済学 需要管理 政策
ケインズ経済学 効果的 財政政策・金融政策
新古典派経済学 無意味 自由放任

政府介入によって非自発的失業が解消されると,今度は賃金が上昇し始め,価格調整の段階に入る。

すなわち,労働需要の拡張は短期的には雇用増という形になり,長期的には賃金上昇という形になる。

期間 学派 調整過程
短期 ケインズ経済学 数量調整
長期 新古典派経済学 価格調整

これが第1部で示した労働市場の改善プロセスにおける理論的背景である。

  • 景気回復の順序
    ケインズ経済学における失業問題の解釈(第1部 Part1 第8章 - 1)

日本政府は目立った反論を行うことなくOECDの対日審査を受諾した。しかし,それらは同時にデフレ促進策でもあった(なお,対日審査の翌年に日本は戦後最悪のデフレ不況に突入した)。

繰り返すが,OECDの提案はデフレ経済(短期の問題)ではなく構造問題(長期の問題)に対する処方箋である。デフレ経済で生じた失業に対し,OECDが提案したような施策を行えば,失業問題はさらに悪化することになる(短期-長期の誤謬

  • ^1「市場介入」には様々な意味がある。昨今では為替介入のことを「市場介入」と呼ぶことも多いが,このサイトは為替介入については否定的である。