第3部 - 2:政府失政と3つの誤謬(短期-長期の誤謬)

Theme 3:新自由主義の問題点

8章 再設計市場主義

第8章以降では,新自由主義的な政策が抱える根本的な矛盾を説明する。実際,第6~7章で説明された現実の政策には違和感を覚えた人も多いだろう。結論からいえば,これは再設計市場主義という構造に起因している。

え?新自由主義経済学の学者って何人もノーベル賞とってたよね?そんな頭いい人たちの理論に矛盾があるの?

このように思ったかもしれないが,これから説明する矛盾は新自由主義経済学の「理論」にあるわけではなく,

「理論」を「現実」に適用する過程

で生じるものである。第8章ではこの仕組みについて概観し,短期-長期の誤謬が本質的に政治問題であることを説明する。

1.市場の理論と現実

市場に関する政策が議論されるとき,

市場原理主義 vs 反市場主義

といった構図で描かれる場合があるが,多くの経済学者はこの間のどこかにいる。

もっとも,この位置はほとんど価値観政治観によって決まる。言い換えれば,学者間の差異は何らかの論理的な間違いなどによって生じているわけではない。まずはその枠組みについて説明する。

① 原則(完全競争市場)

経済学の理論における市場均衡(完全競争均衡)とは全体最適の一種であり,分断されるほど非効率になる。これが理論上の原則だ。

そもそも「市場」とは個々の経済取引を統合したものなのだから,市場理論において分断より統合の方が望ましいのは当然である。

なお,後の議論に関係してくるが,完全競争均衡の場合,B生産者が壊滅したとしても問題にならない。

これはA生産者がB市場の需要(消費者)を奪っただけだ!市場統合という名の侵略だ!

市場は統合しているので元Aも元Bもないのだが,B生産者が壊滅したのは消費者の「選択の自由」の結果とされる。むしろB消費者は安価で優良なA生産者にアクセスできるようになったのだから,不幸なB市場から解放されたと解釈することもできるだろう。

一方,理論上はB生産者も被害者とはならない。なぜなら,業態転換という形で比較優位を実現することにより,さらに効率的な市場が実現されることになるからだ。詳細は省略するが,市場統合は誰にとっても望ましい(効率的)という結論になる。

② 例外(不完全競争市場)

ただし,完全競争市場が実現するには様々な前提が必要となる。以下はその一部だ。

  • 無数の買い手(消費者)と無数の売り手(生産者)が存在する
  • 独占や寡占がない
  • 参入障壁がない
  • 取引コストが存在せず,生産要素の移動が自由
  • 価格に影響を与える市場参加者は存在しない
  • 市場における製品は均質で,相互に代替可能
  • 買い手と売り手は合理的に判断する(完全合理性)
  • 買い手と売り手はすべての情報を入手できる(完全情報)

これらの前提が非現実的であることは誰の目にも明らかである。したがって,現実の世界において完全競争市場は存在しない

え?さっき完全競争市場が原則っていったよね?現実には存在しないのに原則なの?

ここでいう「原則」とは経済学的なモデルの原則であり,その意味でいえば,現実の市場はいずれも原則からずれた「例外」である(それゆえ完全競争市場は理想市場とも呼ばれる)。完全に理想的な人間や国家が存在しないのと同様,完全に理想的な市場もまた現実には存在していない。

完全競争市場の条件を満たしていない場合,市場は十分に機能しない(市場の失敗)。これを防ぐためには制度規制によって市場を補完することが必要になる(これはPart 3の重要なテーマでもある)。

市場の失敗
市場メカニズムによって,かえって効率的ではない状態が達成される現象。

もし個々人が社会全体を正しく捉え,あるべき社会像を共有でき,それを実現するための理性を持てるならば,理想的な社会を実現することは困難ではないだろう。しかし実際は,個々人の捉えられる社会環境は狭小で,あるべき社会像は文化や生活環境で異なり,相反する私益のために国家間の対立や民族間の紛争などの衝突もしばしばおこる。「制度」はこのような人間の限定的能力や社会的制約に付随する問題を緩和するための人間の知恵と言える

―― 船木由喜彦・‎石川竜一郎『制度と認識の経済学』

③ 新自由主義経済学と市場理論

以上より,議論を単純化すれば,

  • 理論:常に市場メカニズムをはたらかせることが正しい
  • 現実:理論上の前提が満たされていることは絶対にない

という関係にある。したがって,経済学者の論点は,

現実の市場をどのくらい完全競争市場(理想市場)で近似できるのか

ということになる。なお,新自由主義経済学では,

完全競争市場は現実の多くの市場において有効な近似になる

と考える傾向が強い。その理由のひとつは,合理性や情報に楽観的な前提(期待インフレ合理的期待形成など)を置いているためだ。一方,ケインズは不確実性に重点を置いており,ケインズ経済学で想定しているよりも市場均衡に対して懐疑的であった。

  • ※ なお,第5章で述べた通り,新自由主義経済学のうち新ウィーン学派(ハイエクなど)は人間の合理性に対してきわめて懐疑的である(ただし,市場重視という点では他の学派と同じ)。また,マルクス経済学はケインズの理論よりもはるかに市場懐疑的だが,人間の合理性には強い信頼を置いている。

Part 3で詳述するが,完全競争市場には

  • 完全情報
  • 完全合理性

という前提があり,その前提に近づくほど制度や規制は不要になる。合理的期待形成を前提に置く新しい古典派経済学などで政府介入が批判的に扱われるのはこのためである。

もっとも,新自由主義経済学であっても規制の完全撤廃を望むことはなく,その意味では完全な市場原理主義というわけではない。

新自由主義は市場原理を信奉する経済学。規制はなければないほどよく,市場は統合されればされるほどよいと考える。

確かに新自由主義経済学は「小さな政府」を志向するが,「無政府」を志向しているわけではない。第7章で述べた通り,新自由主義経済学のなかにあっても国防については政府の役割と考える者が大半だ。一方,教育については意見が分かれており,また,消費財の広範な価格統制については市場懐疑的な学者でも反対意見が強い。


以上より,現実に「市場原理」が適用できるかという判断は,

  • 学術的前提(期待インフレ,不確実性など)
  • 価値観,政治観,社会観,人間観

などによって変わってしまう。以降では具体的なケースによってそのことを確認していく。

2.市場統合の思考実験

現実の市場は完全競争市場の前提を満たしていないため,必ず何らかの制度規制によって補完されている。

言い換えれば,現実の市場は理論上の市場と制度のミックスという形をとっている。

よく機能する市場経済はすべて,国家と市場,自由放任と介入の組合せである。その組み合わせは,それぞれの国の選好,国際的な地位,そして歴史的な経路に依存する。

―― D.ロドリック『グローバリゼーション・パラドックス』

これを市場からみるか制度(システム)からみるかで,解釈は大きく異なってくる。以降では4つの事例でそのことを確認したい。

ケース1:金融システム

たとえば,異なる金融システムの社会が存在したとする。

A社会では巨大金融グループがサービスの供給者で,証券取引も盛んである(証券中心)。一方,B社会では各産業に特化した専門金融機関が多く,企業と安定的な関係が構築されているため,証券市場での資金調達も多くはない(銀行中心)。これについては,

  • 市場の分断は非効率であり,統合を進めるべきだ(新自由主義経済学など)
  • 市場の分断は制度の違いに起因しており,統合は難しい(制度派経済学など)

という2つの解釈があるだろう。

制度派経済学
経済現象を歴史的に発展した社会制度の側面からとらえる経済学。

両見解は文脈次第で正解とも間違ともいえるが,いずれにしても市場統合を目指す場合,必ず制度統合が生じることになる。すなわち,

  • 一方がもう一方の制度に合わせる
  • 両方が新しい制度に合わせる

のどちらかが必要になる。そして,制度の違いが大きい場合ほど社会における軋轢は激しくなる[1]

  • ※ 上記は,第7章で述べた,アメリカが日本に対して要求した金融制度改革の事例を参考にしている。

ケース2:政権との癒着

次に,建設会社の「政治的癒着」のケースについて考える。

西部の建設会社は多額の政治献金によって地元への受注を誘導しており,結果として市場が東西で分断さる格好となっている。この場合,おそらく多くの人が,

不当な政治介入で市場を分断してるんだから,両地域の壁を取り除いて統合した方がいい

と考えるだろう。しかし,この考え方こそ,市場統合が政治問題,すなわち,価値観の問題であることを物語っている。

政治献金によって障壁が形成されているということは,見方を変えれば,

西部の業者が金で壁を買っている

ということにほかならなず,必ずしも自由市場の原則から逸脱しているとは言えない。しかし,このことが現代日本人にとって「不当」に映るのは,

票や政策の売買(市場取引)が規制されているから

である。そして,この市場規制は経済学の理論から導出されたものではなく,政治的判断によって定められたものだ(そもそも合法的な政治献金ならば,法的には何ら「不当」ではない)。上記のケースが「2つの市場」ではなく「割られた1つの市場」に映るのは,現代日本人が常識という色眼鏡で見ているためである。

ケース3:人身売買

上記とは逆の,より極端な事例を考える。

北部では人身売買が禁じられているが,南部ではそれが許可されている。両地域の統合において,

北部は不当な規制で市場取引を制限している!制度を変更してより大きな市場を構築すべきだ!

という人はほとんどいないだろう。しかし,そう考えるのも現代日本人特有の感覚である。実際,このことは南北戦争前のアメリカにおいて大真面目に議論されていた。

また,産業革命期のイギリス議会では児童労働規制の反対意見が述べられており,さらに当時のイギリスはアヘンの輸入を規制する中国に対して宣戦布告している(アヘン戦争)。これらは当時,市場を擁護する議論として受け取られていた。

以上からもわかる通り,現在では当然のように禁止されている,

  • 票や政策の売買
  • 人身売買(奴隷貿易)
  • 児童労働
  • 薬物取引

は,いずれも理論的にではなく政治的に定められたものであり,かつては常識でもなんでもなかった。現代では「当たり前」すぎて見えなくなっているが,現実の市場には実に多くの政治的な規制が内蔵されている

要するに,自由市場は錯覚でしかないのだ。自由に――つまり規制がないように――見える市場があっても,それを指させる規制をわたしたちが完全に受け入れているために,その規制が見えなくなっているにすぎないのである。

―― H.チャン『世界経済を破綻させる23の嘘』

ケース4:OS戦争

最後に,上記3つのケースとは少し異なる制度統合(システム統合)の例を考える。

1990年代後半,OS(コンピュータのオペレーションを管轄するシステム)はWindows一強といわれたが,デザイン業界では依然としてMacが利用されていた。OSはシステム(制度)であり「原則的には」統合した方が効率的だ。それにも関わらず2つのOSが併存していたことについて,2つの異なる仮説があったとする。

  • 仮説1:デザイン業界の重鎮とAppleが不適切な癒着関係にあった
  • 仮説2:デザイン業界で主流のソフトがMacでしか動作しなかった

現実には仮説2が正しいとされており,それゆえ「デザイン業界はMac」という認識が広まり,デザイン関係のソフトはMac使用を念頭につくられるようになっていった[2]。これにより,デザイン業界とOSの間には独特の秩序が形成されていった。このような自己組織化のプロセスはF.A.ハイエクのいう自生的秩序にあたる。

自生的秩序
個人の相互作用によって生成したルール。「人間の行為の結果ではあるが,設計の産物ではない」秩序。言語や慣習,市場などがこれに該当する。

ここで重要な点は,仮説1によって「デザイン業界はMac」と認識された場合であっても同様の秩序が構築されるということである。つまり,元のきっかけが何であろうと,いったん自生的秩序が形成されてしまえば,市場統合の効用制度統合の不効用が上回ることがある(慣習の秩序形成機能)。

したがって,このケースにおいても

  • 市場からみる:データの互換性重視,共通言語化
  • 制度からみる:業界の専門性重視,慣習維持

のどちらを重視するかによって解釈が異なることになる。市場からみれば全Windows化の方が望ましいが,制度からみればそれは大きな摩擦(デザイン業界の不効用)を生み出すことになる。

なお,上記のように2つの意見があり,その賛否が割れているなかで全Windows化を行うならば,政府が有無を言わさず強制するのがもっとも効果的となるだろう。ここに新自由主義政策の重大なパラドックスを確認することができる。それは,

急進的な市場統合を進めようとする場合,かえって強権的な政府が志向される

という点である。

新自由主義政権は市場原理効率性を重視するが,そうした姿勢は既存制度を守ろうとする勢力の反発を招きやすい(通常,こうした勢力は「既得権益」と呼ばれて批判的に扱われる)。しかし,それを抑えて改革を実行しようとすれば,共産主義やファシズムのようなトップダウン型の体制が志向されることになり,新自由主義経済学の考え方と矛盾する。

以降では,このパラドックスについて詳しく説明していく。

3.市場と制度のパラドックス

新自由主義的な政策のもとでは市場原理が重視され,政府介入が制限される。しかし,それに抵抗する勢力がある場合,政策の実行に強い政府介入が必要とされることがある。このパラドックスの本質は,端的にいえば,

市場から「政治」を取り除くには,「政治」の力が必要になる

という構造に起因している。

ここでもう一度,「市場と制度」について考える。なお,ここでいう市場は制度と分離した理論上の市場である。

A:制度について

まず,制度についてだが,これは必ず政治的な色彩を帯びる。

そんなことないでしょ。それは単に政治家が公正中立な制度を作るよう努力していないだけ。

しかし,非政治的な公正など存在しない。なぜなら,「何が公正か」というのは政治的価値観そのものだからだ(第4部 Part 1で詳述)。

たとえば,前章では日米貿易摩擦について説明したが,それはアメリカ側の考える「フェアトレード」の概念(アメリカの考える公正)に反していたことが原因であった。そして,アメリカ政府はそれを是正するため,日本に内需拡張を要求したり,各国で為替の協調介入(プラザ合意)を行ったりと,大いに政治的な介入を行った

これについて「アメリカのわがままだ」と思った人もいるだろう。しかし,日米貿易摩擦において真の公正中立など存在しない。あるのは「アメリカが考える公正」と「日本が考える公正」だけである。このように,制度は「公正」を媒介にして政治と密接に結びつく

B:市場について

一方,制度と独立した(理論上の)市場は政治から切り離されている。言い換えれば,上記のパラドックスは新自由主義経済学の理論的欠陥から生じているわけではない。パラドックスは理論の外にあり,新自由主義経済学を現実の市場に適用する過程で初めて姿を現す

逆にいえば,現実の市場についての言及は,たとえ非政治的な市場理論によって根拠づけられていたとしても,必ず政治的になる。

彼ら(注:新自由主義経済学の学者)は「自分たちの主張は政治的なものではなく,客観的な経済学的真実であり,反対者の主張こそがほんとうの政治的なものだ」という理屈をこねて,ごまかそうとするが,実は彼らの動機も対立する人々に負けず劣らず政治的なのである

―― H.チャン『世界経済を破綻させる23の嘘』

この問題は2000年代になると多くの学者が指摘するようになった。新自由主義経済学が注目され始めた1970年代は,

現在の状況に政府が介入するよりは,しない方がいい

という消極的な主張(反ケインズ経済学)であった。しかし,それは次第に

現在の状況を改善するには,規制(既存の政府介入)を取り除いた方がいい

という積極的な主張へと変化し,制度改造的な性格を強めていった(例:アメリカの子ブッシュ政権,日本の小泉政権)。第9章以降で述べるよう,この時代に入ると,新自由主義は経済学の学派というより,政治的な思想としてしか認識されなくなった。

当サイトでは,制度改造に軸足が置かれている新自由主義のことを,特に再設計市場主義と呼んでいる。

再設計市場主義
既存の制度や政府介入を市場に対する障害物と考え,それを積極的に取り除こうとする考え方。市場統合については,異なるふたつの市場と考えるのではなく,本来ひとつの市場が制度によって分割されていると考える。

新自由主義と再設計市場主義は厳密に区別できるものではない。しかし,多くの国民が「制度の大規模な変更」と認識するようなケースであれば,それは再設計市場主義の問題として議論すべきだと考えられる。

① 国家介入の矛盾

新自由主義経済学では市場機能に強い信頼を置くため,

新自由主義経済学:政府介入を排し,市場統合を推進する

という政策が推奨される。

しかし,現実の市場統合には必ず制度統合が付随するため,片方が制度に合わせるか,新たな制度を創設しなければならない。それゆえ,少なくとも一方は

市場統合政策によって制度変更が強制される

という形になる。そして,制度変更による社会的負担が大きい場合,市場統合は再設計市場主義としての性格が強くなる。

なお,制度統合の負担が大きくなるほど,市場統合に抵抗する勢力は増加する。それゆえ,再設計市場主義には

  • 政府介入を否定する政策の結果として,制度変更(政府介入)が強制される
  • 強権的な政府を否定する思想によって,中央集権的に制度の再設計が行われる

という矛盾が必ず含まれることになる。

新自由主義者はその最も恐れる対象――ファシズム,共産主義,社会主義,権威主義的ポピュリズム,そして多数決さえ――から身を守るため,民主主義的統治に厳しい制限を課さなければならず,逆に重要な決定を下すさいには非民主的で閉鎖的な機関(連邦準備制度やIMF)を頼りにする。このことから,国家が介入主義的ではないと想定されている世界で,極端な国家介入やエリートと「専門家」による統治がなされるという逆説が生まれる

―― D.ハーヴェイ『新自由主義』

② レントシーキング

上で述べたよう,再設計市場主義で問題となるパラドックスは,新自由主義経済学の理論の外にある(理論を現実に適用する過程で生じる)。このことは,より深刻な利益誘導の問題を引き起こす

第4~5章で述べた通り,新自由主義経済学はケインズ経済学の裁量的な政策を批判し,ルールに基づいて政策を実行すべきだと主張した。

それゆえ,市場統合によって共通ルールが適用されることに対しても,「裁量的な政策を縛る」という点で好意的に受け止められる場合が多い(第9章で詳述)。

まあ政治家とかって信用ならないし,そういう人たちに任せるくらいなら,ルールの方がいいんじゃないの?政治家にまかせて利益誘導とかされても困るし。

このように思うかもしれないが,現実の市場の場合,ルールに基づく政治は利益誘導の排除にならない。なぜなら,

新たなルールの設定をめぐって利益誘導が行われる

という可能性があるからだ。このような「自分に有利なルールの設定」はレントシーキングと呼ばれている。

レントシーキング
民間企業が政府に働きかけ,自らに都合のよい制度変更を行わせることで,超過利潤(レント)を得ようとする行為。

レントシーキングはルール設定による問題のため,ルール内部では問題にならない。すなわち,この問題も新自由主義経済学の理論の外にある。悪質な利益誘導であっても,いったんそれを法律として認めさせれば,「ルールに則った合法的行動」となる。

レントシーキングの機会は市場制度の再設計が行われるときに表れる。たとえば,2000年代のアメリカでは大規模な金融制度改革が進められたが,J.スティグリッツ教授(コロンビア大学)はこのタイミングで金融機関による利益誘導が合法化されたと指摘している。すなわち,再設計市場主義には

  • 利益誘導に批判的な新自由主義的思想によって,利益誘導のチャンスを作り出す

という矛盾が存在する。

金融業界はさまざまな形態のレントシーキングについて腕をみがいてきた。すでにいくつかは紹介したが,レントシーキングの手法はほかにもまだまだある。(中略)

しかし,実態がどんどんあきらかになってきた2007年ごろでさえ,政府は金融界の行為を禁止しようとはしなかった。理由は明快。金融界はロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投じてきており,その投資が実を結んだのだ。

―― J.E.スティグリッツ『世界の99%を貧困にする経済』

なお,前章で述べた中南米債務危機においてもレントシーキングの疑いが指摘されている。少なくとも,

  • 結果として,アメリカの民間銀行にとって有利な制度改造が行われた
  • 債務危機のなかにあった中南米諸国は制度改革に従わざるを得なかった

という点は事実といえるだろう。この問題は第9章で再び扱うこととする。

③ 短期-長期の誤謬との関係

再設計市場主義の前提には,

本来はうまくいくものが,何らかの障害物によって阻害されている

という認識がある。そのため,経済問題が生じると,障害物の除去を目的とした再設計が進められることになる。

多くの場合,短期-長期の誤謬はこの発想からスタートする。実際,日本国民の大半は経済学における学派の違いなど認識していないだろう。それにもかかわらず再設計市場主義的な政策が支持を集めた理由は,「市場」ではなく「再設計」の方にひかれたからである。

このことがどのようなプロセスで進んだのかは第4部 Part 1で詳述するが,具体的には以下のような流れで再設計市場主義が支持されていった。

  • ①バブル崩壊などで大規模な不況が発生
  • ②多くの国民が「何か原因があるに違いない」と考える(犯人捜し
  • ③市場を阻害する制度や組織に批判が集まる(既得権益批判
  • ④国民の大多数が再設計を望む
  • ⑤それを正当化するために新自由主義経済学が持ち出される

すなわち,新自由主義経済学が国民に支持される理由は,それが再設計にとって都合がよいからである。これはハイエクが設計主義と批判したフランス革命やロシア革命にも当てはまる。確かに革命の指導者たちは熱心なルソー主義者やマルクス主義者だったかもしれないが,大多数の国民がそれらの理論に賛同していたとは考えにくい。彼らが賛同したのは社会の再設計だと考えるのが自然だろう

しかし,デフレ不況で再設計市場主義が持ち出されると,短期-長期の誤謬によって問題はさらに悪化する。Part 1で述べた通り,デフレ不況は市場機構に内在する問題であって,外生的な「きっかけ」はあっても明確な「原因」があるわけではない(自己組織化)。デフレ不況のなかで市場メカニズムを重視すれば,問題は解決するどころか,短期的にはかえって悪化する。

以上より,現実の短期-長期の誤謬は,

短期(景気変動)の問題を長期(経済構造)の問題と誤認する

という形で生じるのではなく,

再設計(構造改革)を行うために,短期(景気変動)の問題を後回しにする

という形で生じる。第10章で述べるよう,小泉政権の政策はこの典型といえるだろう。以下の議事録からもわかる通り,小泉首相はそもそも景気回復を優先課題と認識していない。

森内閣までのときと比べて,これだけ失業率も高まっている。株も下がっている。景気も悪い。でも構造改革をしろということでやっているんでしょう。やはり,そのぐらいの覚悟がないと駄目だよ。

―― 経済財政諮問会議議事録(2001年12月10日,第32回会議)

実際のところ,短期-長期の誤謬に関する理論的な説明は長くとも第5章までで終わっていた。それにもかかわらず,Part 2が第11章まである理由は,この誤謬が経済学的な誤認からではなく,もっぱら政治的な現象から生じるためである。


新ウィーン学派(新自由主義経済学の学派のひとつ)のハイエクは,

  • 設計的秩序:特定の人間や集団が考案したシステム(ファシズム,共産主義など)
  • 自生的秩序:試行錯誤の結果として形成されたシステム(市場,慣習的制度など)

であれば自生的秩序の方が優れていると考え,政府介入を批判した。

しかし,現実には市場原理(自生的秩序のひとつ)が他の自生的秩序を侵食するケースがある。たとえば,グローバル化の進展による地域共同体や社会慣習の破壊などがそれにあたるだろう。このとき,政府が一方の自生的秩序を破壊し,積極的にその統合・再編を促すのであれば,それは設計的秩序にほかならない(再設計市場主義)。2000年代(ハイエクの死後)はこの矛盾が急激に噴出した時代であった。

次章以降では,この具体的事例である,

  • 世界経済とアメリカ(子ブッシュ政権)における再設計市場主義
  • 日本(小泉政権)における再設計市場主義

について説明する。

  • ^1(※前述の通り,完全競争市場の場合は業態転換が生じるため問題にならない)
  • ^2第2部で述べた通り,基礎的なマクロ経済学においては不確定性(リスク)・不確実性が考慮されていないため,「環境安定化」については基本的に言及されていない。